それぞれの幸せ
 おそらくは、何も言わずに了道の横へ立っている佳代も――。

 雄二の喉が、わずかに鳴った。
「……分かりました」
 短く返す。

 そんな雄二の横で、雪絵が何の疑いもなく、柔らかく笑った。
「了道おじちゃん、雄二さんをあまりこき使わないでくださいね? 彼は百香ちゃんの大事なパパなんですから」
「ははっ、雪絵も言うようになったな。――ま、俺にとっても相良へ預けたとはいえ、大事な若い衆だからな。ちゃんと手加減するから安心しろや」

 豪快な笑い声。

 だがその目は、最後まで雄二から逸れなかった。

 了道と佳代を乗せた車が走り去る。

 静かな住宅街に、再び日常の音が戻った。

「お仕事、お忙しいんですか?」
 雪絵が首を傾げる。
「まぁ、それなりに……な」

 それ以上は、言えなかった。


***


 翌日は水曜日だった。

 まだ少し肌寒い空気の中、雄二はネクタイを締めながら居間へ視線を向ける。

 雪絵はソファに座り、腕の中の百香を静かに揺らしている。
 小さな寝息が、部屋の中に穏やかに響いていた。
 佳代も言っていたが、百香は本当によく眠る。それだけ雪絵の乳が潤沢で、お腹がいっぱいなんだろう。ぷくぷくとした肉付きの良い手足が、百香が健康に育っていることをうかがわせた。

「……今日は、少し遅くなるかもしれん」
 雄二が言うと、雪絵が顔を上げる。
「お仕事ですか?」
「ああ」
 短く答える。
 雪絵はそれ以上は聞かなかった。
 けれど、きっと昨日の今日だ。了道のところへ出向くことは分かっているだろう。

「行ってくる」
 百香のふわふわの髪の毛にそっと触れて雪絵に言えば、百香を抱いたまま雪絵が慌てて立ち上がった。
「玄関までお見送り――」
 します、と続けたかったんだろう。だが、その言葉は腕の中の百香からの「ふにゃあ」という泣き声で中断された。
「あ……」
 雪絵が慌てて百香を抱き直して背中を優しくトントンしながら揺らす。

 雄二はその様子を一瞬だけ見つめ、それから視線を逸らした。

「俺のことはいい。百香をあやしてやってくれ」
「でも――」
「いいから」

 そう言って、雄二はもう玄関へ向かっていた。
 扉を開ける直前。
 なんとなく振り返る。
 雪絵が百香を揺すりながら、少しだけ不安そうな顔でこちらを見ていた。

 それでも――雄二と視線がかち合った瞬間、ふわりと淡く微笑む。

「……行ってらっしゃい、雄二さん」

 雄二は何も答えずただ一度だけ小さくうなずくと、外へ出た。


***


 本来なら、このまま葛西了道の家へ向かうべきだったのだが、雄二は家を出る前から先に百合香のマンションへ向かおうと決意していた。
 百合香に、言えていないことがある――。
 了道から制裁を受ける前に、どうしてもそれを百合香に直接伝えておきたかった。

 インターホンを押すと、程なくして扉が開いた。
「え? 雄ちゃん……?」
 百合香が驚いたように目をまんまるにする。
 今日は水曜日だ。
 雄二が訪れることは想定していただろうが、こんなに朝早く来るとは思っていなかったんだろう。
 それでもすでに身だしなみをしっかり整えているところが、百合香らしいなと思ってしまった雄二だ。
「入って?」
 言いながら扉を大きく押し開けた百合香の視線が、ふと雄二の顔で止まった。
「……それ」
 細くしなやかな指が雄二の口元へ伸びる。
「どうしたの?」
 雄二の頬に、うっすらと残る傷跡。三井になぐられてから数日経って大分薄れてはいるけれど、まだ完全に消えてはいない。
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