それぞれの幸せ
 それを撫でる百合香の足元へ、しろがニャーンと言いながら擦り寄った。
「ちょっとな」
 まるで好都合と言わんばかりに屈んでしろを撫でながら、雄二は短く答えた。

 それ以上は語らない。
 百合香も、それ以上は聞かなかった。

「コーヒーでも……」
 ――飲む? と続けようとした百合香を強く抱き寄せると、初っ端から深い口付けを落とす。

 言葉はない。
 ただ、二人の間で、熱を持ったように濡れた水音が響いた。突然近付いた男女の距離に驚いたように、しろがキッチンの方へ走り去る。
 そのまま当然のように服を脱がせ合いながらベッドへ向かった雄二と百合香は、思うさま求め合った。

 しばらくして――裸の百合香を腕に抱いたまま、雄二が低く言った。
「……娘の名前だがな、百香にした」
 百合香が、雄二の腕の中で身じろいだのが分かった。
「ももか……ちゃん?」
「ああ」
 雄二は淡々と続けた。
「百の香りと書いて、百香だ」
 そして、少しだけ間をあける。
「……百合香。お前の名前から取った」
 百合香の呼吸が、息を呑んで止まった。
 きっと余りのことに、すぐには言葉が出てこないのだ。
「あ、あの、雄ちゃん……。奥さんは……その……娘さんの名前の由来を……」
「知らない」
 即答した。
「……そう」
 腕の中の百合香が、ゆっくり吐息を落とす。
 その様は、まるで罪の意識にさいなまれて縮こまっているように見えた。
 雄二を責めない代わりに、自分を責める。
 百合香はそういう女だった。
「私が……弱かったせいね……」
 ここにいる時点で、自分も同じ罪を背負っている。
 やがて落とされた覇気のない百合香の声音に、雄二は「お前のせいじゃない。俺自身の問題だ」と短く答えた。

 だが、百合香は、雄二の言葉になんの反応も示さない。
 雄二は、そんな百合香の沈黙を、ただ黙って受け止めていた――。


***


 百合香と別れた後、身支度を済ませた雄二は、約束通り葛西了道の邸宅を訪ねた。

 いつもなら葛西組の面々が門を開けてくれたりするはずなのだが、今日に限って言えば、出迎えてくれたのは了道の妻の佳代で、彼女の案内で重い空気の座敷に通された。

 人払いでもされているのだろうか。
 常ならば了道のそばに控えているはずの葛西組の黒服たちの姿がない。

 雄二が座る向かいには、葛西了道が座していた。

 ここへ通されてほどなくして、佳代が運んできてくれた茶が、二人の前に置かれている。茶器から立つ湯気が、ゆらりと揺れていた。

 茶を一口すするなり、了道の視線が、雄二の顔をじっと見つめる。

「……顔の傷」
 短く言う。
「三井か?」
「はい」
 雄二は視線を落としたまま答えた。
 しばらくの沈黙ののち――。

「そうか」

 了道は低い声音でそれだけを言った。
 了道は再度湯呑を持ち上げ、一口すすってから言う。

「正直な話な、俺も三井と同じことをしてやりてぇ気持ちだ」
 静かな声。
「だがな」
 雄二を真っ直ぐに見る。
「あいつが手ぇ挙げたんなら、俺は手を出さねぇよ」

 言って、じっと雄二の顔を見つめてから、低く続ける。

「その代わり――」

 了道は湯呑を卓へ戻した。

「てめぇがしたことの(ごう)の深さを、これから一生かけて思い知れ」

 間――。

 それから了道は、雄二を見据えたまま噛んで含めるように言った。

「娘の名前を呼ぶたびにな」
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