それぞれの幸せ

第2節 千崎雄二『同行者』

 相良組(さがらぐみ)の事務所は、昼を過ぎると少しだけ空気が緩む。

 とはいえ、一般の会社のような静けさとは違う。
 奥の卓では若い衆が帳面をめくり、電話口では低い声で何やら数字が飛び交っている。煙草の煙が染みついた事務所特有のなんとも言えない匂い。いつも通りの光景だ。

 その中で、千崎(せんざき)雄二(ゆうじ)はゆっくりと立ち上がった。
 机の脇に掛けていた上着を取り、袖に腕を通す。
 それだけで、向かいの席から椅子が軋んだ。

「……出かけんのか。俺も行く」

 三井(みつい)隆司(たかし)だった。
 短く言って、同じように立ち上がる。

 雄二は何も言わず、眼鏡のレンズ越しに三井の顔を見た。
 数秒の沈黙。
 三井が鼻で笑う。

「なんだ。不満か?」

 雄二は答えない。
 三井は煙草を灰皿に押しつけながら続けた。

「俺がいたら、あの女とイチャつけねぇもんな?」

 わざとらしい言い方だった。
 雄二は眉を(ひそ)める。

「好きに言え」
「好きに言ってんじゃねぇよ」
 三井は立ったまま、ポケットへ手を突っ込んだ。
「オヤジの命令だ」

 短い一言。
 その意味は十分すぎるほど分かる。

 ここでいう〝オヤジ〟は、もちろん『相良組』組長・相良京介のことではない。

 葛西(かさい)了道(りょうどう)――。
 相良組の上に立つ一次団体、『葛西組』親分のことだ。

 その名が出れば、それで十分だった。
 この世界で上の命令に逆らうという選択肢はない。

 雄二は小さく舌を鳴らした。

「……あんたも暇じゃなかろうに」
「暇とか関係ねぇよ」
 三井が肩を回す。
「お前がこれ以上家族を傷つけるような余計な真似をしねぇよう見とけって話だ」
「余計な真似?」

 三井は笑った。

「ランジェリー屋に入り浸る極道の幹部なんざ、十分異質で余計だろ」

 雄二は鼻で笑う。

「幹部になった覚えはない。相良(カシラ)の右腕だ」
「俺もな」

 三井が言う。

 その言葉は軽いが、意味は軽くない。

 相良組には若頭なんてものは存在しない。

 (かしら)である相良京介の右腕が二人。

 千崎雄二と三井隆司だ。

 ただし、年齢も付き合い年数も三井の方が長い。
 相性の問題で雄二が京介と行動を共にすることは多いが、組の中での立場は大差ない。
 だが、極道歴でみれば、当然三井の方が長い。別に兄弟の杯は交わしちゃいないが、雄二にとって三井は、どこか兄貴分のような存在でもあった。

 三井は灰皿の横に置いた鍵を掴むと雄二に差し出した。

「行くぞ」
「……ああ」

 雄二はそれ以上何も言わなかった。

 行き先は、決まっている。

 ランジェリーショップ『YURIKA』。

 表向きはただの女性ものの下着屋――。
 だが実際は、相良組が出資している店のひとつだ。

 そして――そこには、雄二が愛してやまない女・桐生(きりゅう)百合香(ゆりか)がいる。
 ショップ内には百合香のほかに売り子の女性がいるから、三井や了道が心配するような事態にはならないのだが、それでも一応、なんだろう。

 自分の前を歩く三井の背中を見つめながら、雄二は小さく吐息を落とした。

 本当なら――あの店には、もっと気軽に行きたい。

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