それぞれの幸せ
第3節 千崎雄二『違和感』
玄関の戸を開けると、台所の方から包丁の音が聞こえてきた。
一定のリズムで、何かを刻む音。
千崎雄二は靴を脱ぎながら、その音に耳を傾ける。
(――いつも通りだ)
……そう思った。
「ただいま」
声をかけると、包丁の音が止まる。
少しして、台所から雪絵が顔を出した。
「おかえりなさい」
穏やかな声だった。
エプロン姿のまま、手を軽く拭きながら玄関まで来る。
「今日は少し早いんですね」
「ああ」
短く答える。
それだけの会話。
雪絵はそれ以上何も言わず、雄二の荷物と上着を受け取り、それらを所定の場所へ片付けると、また台所へ戻った。
雄二はネクタイを緩めながら、その背中をぼんやり見送る。
(別に、何も変わっていない)
そう思う。
夕飯の匂いもしているし、部屋もきちんと整っている。
百香を孕ってから、雪絵は外で働くのをやめた。
それまでは、了道の口利きで紹介された建設会社の事務員として勤めていた。
朝は雄二が車で送り、帰りは迎えに行く。
そんな生活だった。
だが今は、家にいる。
百香を育てながら、この家のことを回している。
だから、こうして夕飯が並んでいるのも――当たり前の光景だ。
それなのに――。
どこか、静かすぎる気がした。
「パパ!」
自室から飛び出してきた百香が、雄二の前でぴたりと足を止める。幼いころならそのまま飛びついてきていたところだが、ここ数年はそうならないことが増えた。
一瞬だけ、どうするか迷うように視線が揺れる。
それから、小さく一歩踏み出して――遠慮がちに、雄二の腕に触れた。
成長したな、と思う。
「おかえりなさい、パパ」
「ただいま」
「……あのね、今日、学校でね――」
それでもこんな風に雄二を見上げて嬉しそうに話してくれるから、まだ父親として嫌われてはいないということだろう。
女の子は成長の過程で男親を毛嫌いする場合があると教えてくれたのは年配の組員だ。
その時がきたら、静かに受け入れようと思う。
「雄二さん」
雄二の手に触れたまま懸命に今日の出来事を報告してくれようとする百香の声を、柔らかく遮るみたいに台所から雪絵の声が飛んできた。
呼びかける声は、いつもと変わらず穏やかだった。
「そろそろ夕飯にしますので、先にお風呂へ入ってきてください」
ごく自然な言い方――。
それこそ、気遣いのようにも聞こえるような。
「……ああ」
短く答えながらも、どこか違和感を感じてしまったのは、こんな風に百香と話しているところを邪魔されたことがなかったからかもしれない。
百香は突然の母の乱入に、ぱちぱちと瞬きをした。
だが、何も言わない。
そのまま話の続きをしようとして――ふと、口を閉じると、ほんの一瞬、母親の方へ視線を向けた。
そして、小さく首を傾げる。
まるで、何かがいつもと違うと気づいたみたいに。
雄二はその様子を何となく目で追った。
雪絵はもうキッチンカウンターの方へ向き直っている。
背中越しに包丁の音が再開した。
トントン、という規則正しい音。
雄二は居間の椅子に腰を下ろした。
本当なら、すぐに風呂へ向かうべきだ。
それなのに――なぜか、体が動かなかった。
(――何も変わっていない)
そう思う。
雪絵はいつも通りだ。
夕飯を作り、百香に声をかけ、家のことをきちんと回している。雄二にだって普通に接している。
それなのに――。
違和感が、消えない。
雄二は眉をひそめた。
さっきから、雪絵が一度も雄二と目を合わせていないことに気が付いたからだ。
別に、それが珍しいわけじゃない。
忙しく家事をしていれば、そんなこともあるだろう。
それなのに――そのことが妙に引っかかった。
理由は分からない。
ただ――家の空気が、どこか違う気がした。
音も、匂いも、何も変わっていないはずなのに――。
なぜか、いつもの家じゃない気がする。
一定のリズムで、何かを刻む音。
千崎雄二は靴を脱ぎながら、その音に耳を傾ける。
(――いつも通りだ)
……そう思った。
「ただいま」
声をかけると、包丁の音が止まる。
少しして、台所から雪絵が顔を出した。
「おかえりなさい」
穏やかな声だった。
エプロン姿のまま、手を軽く拭きながら玄関まで来る。
「今日は少し早いんですね」
「ああ」
短く答える。
それだけの会話。
雪絵はそれ以上何も言わず、雄二の荷物と上着を受け取り、それらを所定の場所へ片付けると、また台所へ戻った。
雄二はネクタイを緩めながら、その背中をぼんやり見送る。
(別に、何も変わっていない)
そう思う。
夕飯の匂いもしているし、部屋もきちんと整っている。
百香を孕ってから、雪絵は外で働くのをやめた。
それまでは、了道の口利きで紹介された建設会社の事務員として勤めていた。
朝は雄二が車で送り、帰りは迎えに行く。
そんな生活だった。
だが今は、家にいる。
百香を育てながら、この家のことを回している。
だから、こうして夕飯が並んでいるのも――当たり前の光景だ。
それなのに――。
どこか、静かすぎる気がした。
「パパ!」
自室から飛び出してきた百香が、雄二の前でぴたりと足を止める。幼いころならそのまま飛びついてきていたところだが、ここ数年はそうならないことが増えた。
一瞬だけ、どうするか迷うように視線が揺れる。
それから、小さく一歩踏み出して――遠慮がちに、雄二の腕に触れた。
成長したな、と思う。
「おかえりなさい、パパ」
「ただいま」
「……あのね、今日、学校でね――」
それでもこんな風に雄二を見上げて嬉しそうに話してくれるから、まだ父親として嫌われてはいないということだろう。
女の子は成長の過程で男親を毛嫌いする場合があると教えてくれたのは年配の組員だ。
その時がきたら、静かに受け入れようと思う。
「雄二さん」
雄二の手に触れたまま懸命に今日の出来事を報告してくれようとする百香の声を、柔らかく遮るみたいに台所から雪絵の声が飛んできた。
呼びかける声は、いつもと変わらず穏やかだった。
「そろそろ夕飯にしますので、先にお風呂へ入ってきてください」
ごく自然な言い方――。
それこそ、気遣いのようにも聞こえるような。
「……ああ」
短く答えながらも、どこか違和感を感じてしまったのは、こんな風に百香と話しているところを邪魔されたことがなかったからかもしれない。
百香は突然の母の乱入に、ぱちぱちと瞬きをした。
だが、何も言わない。
そのまま話の続きをしようとして――ふと、口を閉じると、ほんの一瞬、母親の方へ視線を向けた。
そして、小さく首を傾げる。
まるで、何かがいつもと違うと気づいたみたいに。
雄二はその様子を何となく目で追った。
雪絵はもうキッチンカウンターの方へ向き直っている。
背中越しに包丁の音が再開した。
トントン、という規則正しい音。
雄二は居間の椅子に腰を下ろした。
本当なら、すぐに風呂へ向かうべきだ。
それなのに――なぜか、体が動かなかった。
(――何も変わっていない)
そう思う。
雪絵はいつも通りだ。
夕飯を作り、百香に声をかけ、家のことをきちんと回している。雄二にだって普通に接している。
それなのに――。
違和感が、消えない。
雄二は眉をひそめた。
さっきから、雪絵が一度も雄二と目を合わせていないことに気が付いたからだ。
別に、それが珍しいわけじゃない。
忙しく家事をしていれば、そんなこともあるだろう。
それなのに――そのことが妙に引っかかった。
理由は分からない。
ただ――家の空気が、どこか違う気がした。
音も、匂いも、何も変わっていないはずなのに――。
なぜか、いつもの家じゃない気がする。