それぞれの幸せ
「……雄ちゃん」
 顔を出した百合香は、ほんの一瞬だけ切なげに目を細める。
 それから、何事もないみたいにすぐさまフッと表情を緩めた。

「いらっしゃい」
「ああ」

 短く答える。

 多くは語らないけれど、二人にはそれだけで十分だった。

 百合香はドアを大きく開け、身体を横に引く。
「どうぞ」
 その声に、余計なものは一切混じっていない。

 責めるでも、探るでもない。

 ただ、当たり前のように雄二を迎え入れてくれる優しい声だった。

 雄二は玄関先に足を踏み入れるなり、靴を脱ぐ時間も惜しんで百合香を腕の中へ引き寄せていた。

 そのまま、言葉を交わす間もなく、唇を重ねる。
「……んっ」
 性急に舌を絡め取り、百合香がそれに応えて甘い吐息を漏らしたと同時、背後でドアが閉じ切って、カチャリとオートロックが作動する微かな音が響いた。

 それを合図に、百合香を抱く腕に一層力を込める。

 百合香は、一瞬だけ躊躇いに身体を硬くしたけれど、――すぐに抵抗をやめた。

 そうしていつも通り、雄二の全てを肯定してくれるかのように、静かに細い腕を雄二の背中へ回してしがみついてくる。

 その体温に触れた瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、ゆるりと(ほど)けた。
 雪絵を腕に抱いてもこんな気持ちは湧いてこない。
 そればかりかこのところの違和感を思えば、百合香の柔らかな空気が、たまらなく心を和らげてくる。

 二人はお互いの存在を確かめながら、抑えきれない衝動のまま、口付けを深くしていった――。

 ここが玄関先で……まだ靴すら脱いでいないというのに。

 それでも、百合香を離したくなかった。

 指先が、無意識にその身体をなぞる。
 このまま、どこまででも求めてしまいそうになる。

「や、雄ちゃ、待っ……」

 さすがにそれは抵抗があったのか、百合香が自分の下腹部へ伸ばされる雄二の手を握ったと同時――。

 足元に、柔らかな感触が擦り寄ってきた。

「……にゃあーん」

 次いで聞こえてきた間の抜けた鳴き声に、雄二の動きが止まる。

 視線を落とすと、白い毛並みの猫――しろが二人の足元で、こちらを見上げてきた。そうして雄二と目が合うなり、「仲良しの儀式ですか? ボクも混ぜてください!」と言わんばかりに立ち上がって雄二に縋り付くと、丸くてふわふわな手を伸ばしてくる。

「……しろ」
 その愛くるしい姿に、雄二は小さく息を吐くと、百合香にかけた腕の力を緩めた。
「お前な、……そんなにしたら毛がつく」
 しろの鼻先に指を差し出して不満を漏らすなり、百合香がくすりと笑った。
「空気を読まない子でごめんね?」
「……いや、助かった……」
「……え?」
「……このままここで、ってのも……な?」

 雄二が濡れたままの百合香の口元を優しく親指の腹で拭うと、百合香が照れたようにわずかに視線を伏せた。

 それから、ゆっくりと顔を上げると、雄二を見つめてくる。

「雄ちゃん、今日は……いつもより少し遅かったね……」

 責めるでもない、柔らかな声音。
 けれど、その奥に、〝今日は来てくれないかと思った〟という言外の不安が滲んでいた。


「すまない。……いつも通りに来たかったんだが……ちょっとな」

 百合香の心細さを拭いたくて、彼女の頬を柔らかく撫でる。

 その感触に目を細めながら、全てを察したように百合香が頷いた。

「……ひょっとして……三井、さん?」
「……ああ」
「そっか」

 それ以上は聞いてこない。
 聞く必要がないと分かっている顔だった。

 雄二は小さく息を吐いた。

 ここ最近ずっとわだかまっている家のほうの違和感。

 それとは違う、包み込んでくれるような温かさがここにはある。出来ることならば、ずっとここにいたい。

 ――だが。

 雄二は――いや、おそらくは百合香も……それが叶わない望みであると知っていた。
 だからこそ余計に二人と一匹で過ごせるこの時間が、胸が苦しくなるくらいに愛しいのだ……。
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