それぞれの幸せ

第4節 千崎雪絵『侵された場所』

 夕方の光が、キッチンにやわらかく差し込んでいる――。

 今日は水曜日。
 夫の千崎(せんざき)雄二(ゆうじ)が、愛人の家へ行く日だ。

 それは、雄二に結婚を承諾してもらう条件として、雪絵(ゆきえ)自らが〝契約〟として許したことだった。
 代わりに望んだのが、正妻として彼の子を持つ権利――。
 それだけは自分にだけ与えて欲しい。それを守ってくれるなら、雄二が別の女性とどんなに心を通わせ、(むつ)み合おうと目をつぶる。そう、約束した。
 自分で決めたこととはいえ、正直胸がかきむしられるほど苦しかった。

 けれど、――今は違う。

 今日、もし雄二がこの家に帰ってこなかったとしても……雪絵は何も思わない。

 百香(ももか)の名に――夫の愛人の名が重なっていると知った瞬間から、憑き物が落ちたみたいに雄二に対する愛情が冷めた。

 雪絵にとって雄二との子――娘は不可侵領域だ。
 そこに、雄二が土足で愛人をにじませるような真似をしてきた。
 これほど、踏み込まれていい場所だっただろうか。

 流しに向かい、手を動かしながら、雪絵はぼんやりと水に手を差し出したまま、不規則に流れ落ちる水音を聞いている。

 長いこと流水にさらされた手は、すっかり冷たくなっていた――。

 背後で、ぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。
 雪絵は、振り返らないままにその気配にぼんやりと意識を傾けた。

「ねぇ、ママ」
 甘えるような声。
 それだけで、誰なのか分かる。
 雪絵の大切な大切な宝物。目に入れても痛くないほど愛してやまない、腹を痛めて産んだ我が子だ。

「なぁに?」
 振り返りながら、いつものように応じる。
 口元に柔らかな笑みを浮かべて、そのまま続けて――呼ぶはずだった。
 〝百香〟という愛娘の名前を。
 でも、声が出なかった。
「……」
 言葉が、止まる。

 ほんの一瞬。
 けれど確かに、そこに微妙な空白があいた。

 少女は気づいていない様子で、雪絵のエプロンの端をつまんだ。
「ねぇ、ママ。前に話した下着のお店、いつ連れて行ってくれる?」
 無邪気な声。曇りのない眼差し。
 その全てに、胸の奥がわずかに(きし)む。
「……あぁ」
 視線を逸らし、娘越しに見える廊下をぼんやりと見つめる。
 背後で出しっぱなしになったままの水道の水音が、妙に耳障りに感じられた。
 雪絵は振り向きざまに水を止めると、小さく吐息を落とした。
「そのお店なんだけど……別のお店にしない?」
「え? どうして?」
「ママ、《《あなた》》に言われて、下見に行ったの。……ちょっとあそこのお店の下着は()、……小学生には早いかな? って思って」

 本当の理由は言わない。
 言えるわけがない。

 娘は少しだけ首をかしげたあと、「そっか。ママがそう言うんなら……」と素直に頷いた。

 その様子に、ほっとする。

「それでね、このお店とかどうかと思って……」

 エプロンのポケットへ入れてあったスマートフォンを取り出して、あらかじめチェックしてあった別のランジェリーショップのホームページを表示し、百香へ手渡した。
「わぁー、すごく可愛い!」
 途端瞳をきらきら輝かせて画面をスクロールする娘を見つめながら、雪絵は思わずにはいられない。

(――どうして?)
 愛する娘の名前を呼ぶ。
 それだけのことが、できないんだろう。

 知ってすぐのころは、まだ呼べていた。
 けれど――。
 日が経つにつれ……雄二が彼女を(いと)し気に「百香」と呼ぶたび、自分の中で〝百香〟という名前がどんどん遠のいていった。

 百香、と口にしようとするたび、心の奥底にどす黒い何かが混ざる。

 雄二から「百香」という名を提示された時、純粋に可愛くてきれいな名前だと思ったそれが、もう――当時の幸せな心のままには受け取れない。

 呼ぼうとすればするほど、重なってくる。

 知らないはずだった気配が。
 知ってしまった、別の存在が。

 ひとつの名前の中に、もうひとり分の影が入り込んでいるような感覚が、気持ち悪くてたまらなかった。

 それを、自分の口で確かめることが、どうしてもできない。

 視界の端で、娘が嬉しそうに何かを話している。

 その声を聞きながら、雪絵は思う。
(……ここだけは)
 この子だけは、自分だけが雄二から与えられたものだったはずだ。

 妻であることとは別に。
 誰にも触れられない、自分だけの場所。

 そう信じていた。

 なのに――。

 その不可侵領域に、混ざっている。
 自分ではない女性の気配が――。
 夫の、別の感情が――。

 この家に。いいや、自分が産んだ我が子にだけは……、絶対に混ざってはいけないものが――。

 それが、静かに……当たり前の顔をして入り込んでいることが、どうしようもなく気持ち悪かった。
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