それぞれの幸せ
(――侵された)

 怒りとは違う。
 声を荒げることも出来ない、それは静かな〝心の崩壊〟だった。

 ただ、絶対に汚されたくないと思っていた場所に、土足で踏みにじられ、裏切られたという――鈍い感覚だけが残っている。

 そして、それは――もうどう足掻(あが)いても取り戻すことはできないと分かっていた……。


***


 遠くで、車のエンジン音が低く響いた。
 やがてそれは、家の前でゆっくりと止まる。

(帰ってきたのね)

 その瞬間、雪絵はすぐに目を開けた。

 眠っていたわけではない。
 ただ、目を閉じていただけだ。

 身体を起こし、静かに布団を抜ける。

 廊下へ出ると、冷えた床の感触が足裏に伝わった。
 音を立てないように歩きながら、身体は自然と玄関へ向かう。

 玄関の外で、鍵が差し込まれる気配がする。
 小さく金属の触れ合う音。
 ――開錠される、かすかな手応え。

 雪絵は扉が開かれるより先に、玄関の灯りをつけた。

 外気とともに、雄二の気配が流れ込んでくる。鼻孔をついた、家にあるものとは違うシャボンの香り。そもそも雪絵が許したことだ。夫の方も、隠すつもりはないらしい。

 かつては素知らぬ顔をしながら、内心穏やかではいられなかったけれど、今は自分でも可笑しくなるくらい、心が凪いでいる。

 雪絵は一歩下がり、頭を下げた。
「……お帰りなさいませ」
 いつものように、雄二の手から荷物と上着を受け取る。
 それは、何も考えなくても自然と身体が動く習慣だった。
 雄二の方も、なんの疑問も抱かないみたいに雪絵にそれらを手渡してくる。
 うまくいっている夫婦を演じるための、役割分担。
 雪絵は淡々と〝妻としての〟役目を果たす。
 もはや、それ以上の意味はない。

「……二十三時を過ぎたら、《《私》》のことは気にせず、先に寝ていていいと言っただろう」

 低く抑えた声。
 子どもを起こさないための声音。

 その気遣いすら、今の雪絵には遠いものに感じられた。

「妻としての務めですので、お気になさらず」

 顔を上げる。
 それ以上の言葉は続けない。
 必要がないからだ。

 薄明かりの中で、雄二の輪郭だけが浮かんでいる。
 彼は、「好きにしろ」とも、「そんなことをされては迷惑だ」とも言わない。
 雪絵には、昔から目の前の男が何を考えているのかよく分からなかった。
 かつては、そんな彼のことを理解したくてたまらなかった。
 でも、今は――どうでもいい。

「……百香は?」

 問われて、ほんの一瞬だけ間が生まれる。
 何を言われても何も感じないと思っていたけれど、娘の名を目の前の男から告げられることにだけは、どうしても嫌悪感を覚えてしまう。雄二が〝百香〟と呼ぶたびに、可愛い娘の名前が別のものに置き換わってしまう気がした。

「何時だと思っているんですか? もう寝ているに決まってるじゃありませんか」
 淡々と答えたつもりだけれど、苛立ちがセリフににじむ。
「それもそうだな」
 それだけ――。
 噛みつくような物言いをした雪絵に、雄二は謝るでもなく、ただ静かにうなずいた。

「……顔だけでも見てくる」
 その言葉に、雪絵は即座に返した。
「おやめください」
 短く、はっきりと。
 玄関の空気が、わずかに張り詰める。

 雄二の動きが止まった。
「……どういう意味だ」
 低く問う声。

 怒りではない。
 探るような響き――。

 かつては嫌われたくなくてひるんでいた夫からの視線だったけれど、雪絵はもう、引き下がるつもりはない。

「そのままの意味です」
 静かに告げる。
「年頃の娘です。深夜に寝室へ入るのは、お控えください」

 一拍。
 必要なことだけを並べる。

「……私はあの子の父親だ」
「承知しております」
 間髪入れずに答える。
「それでも、です」

 それ以上は言わない。
 説明するつもりもない。

 自分が、これほどまでに夫が娘へ近付くことに嫌悪感を覚える意味が、もし彼に分かるなら、それでいい。
 分からないなら――それでも構わない、と思った。

 短い沈黙。

 やがて、雄二が小さく息を吐いた。
「今夜はリビングで寝る」
 それだけ言って、靴を脱ぐ。まるで、面倒を避けるように。

 納得はしていないが、雪絵の苛立ちを察したように別室で寝るということだろう。
 雪絵の拒絶を受けて、〝素直に従っただけ〟という響きだった。

 雪絵はそれを咎めることもなく、「お好きにどうぞ」と静かにつぶやくと、(きびす)を返す。

 役目は終わった。
 これ以上、ここにいる理由はない。

 背後の気配が遠ざかっていく。
 でも、未練がましく振り返ることはしなかった。

(……私はもう、あの人に何も期待していない)

 そう思っているはずなのに。

 胸の奥で、ほんのわずかに何かが引っかかった気がした。

 けれど、それを確かめることはしない。
 確かめる必要も、ない。

 静かな足取りのまま、雪絵は寝室へと戻っていった。
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