それぞれの幸せ

第5節 桐生百合香『見送るだけの場所』

 扉が閉まる音がして、部屋の中に静けさが戻る。
 ついさっきまでそこにあった気配が、嘘みたいに消えていた。
 だけど大好きな彼――千崎(せんざき)雄二(ゆうじ)が部屋にいたという証のように漂う雄二の残り香が、切ないくらいに百合香(ゆりか)の胸を締め付ける。

(雄ちゃん……)

 灰皿に残されたゴミですら愛しい。
 雄二は吸い殻で綺麗に灰皿の片隅に灰を集め、そのそばに吸い殻を整頓するように置く癖があった。几帳面な雄二らしくて、そんなところにですら彼のことをたまらなく好きだと感じさせられてしまう。
 雄二が銀行員時代には吸わなかったはずの煙草。きっとそれを覚えたのは、彼が堅気(かたぎ)ではなくなってからのことなんだろう。
 眉間に皺を寄せながら、さして美味しくもなさそうな顔をして紫煙を燻らせる雄二の横顔。その顔を眺めるのが、百合香は結構好きだった。

「……行っちゃった……」
 ぽつりと声に出してつぶやくと、余計に寂しさが募った。

 灰皿を見つめて吐息を落した百合香の足元で、かすかに気配が動く。
 柔らかな毛並みが、すり、と素足に触れた。
 視線を落とすと、白い影がこちらを見上げている。
「ニャ?」
 何も分かっていないような顔で、愛猫しろがただそこにいてくれる。

 ――しろも、もうだいぶ年を取った。

 昔みたいに部屋の中を駆け回ることもなくなって、こうして静かに傍に寄ってくることが増えた。
 その分、身体を預けてくる重みや温もりが、前よりも少しだけ愛おしく感じられる。

 時間は、ちゃんと流れている。
 ここだけが、取り残されたみたいに見えても。

「……しろ」
 温もりを求めて手を伸ばす。
 犬みたいにしっぽをブンブン振って慰めてはくれないけれど、ただ黙って撫でさせてくれる。
 それが、今の百合香にはどうしようもなく有り難かった。

 百合香はしろを抱き上げると、彼を膝に乗せたままソファの上でゆるりと力を抜いた。

 もう消えてしまった愛しい(ひと)の温もり。
 だけど彼がそこにいたと誇示するみたいにほんの少し乱れたクッションが、なんだかすごく胸を締め付けてくる。

 つい先ほどまで熱っぽく求められていた身体のそこかしこに、雄二が残した執着の余韻が残っている。

 それらを付けられた情景を、ひとつひとつ脳裏に思い浮かべながら、百合香はゆっくりと息を吐いた。

(……いつも通り)

 水曜日――。
 彼は太陽が中天に差し掛かる前にここへ来て、そうして日付が変わらないうちに帰っていった。

 それだけのこと。
 それ以上でも、それ以下でもない。

 結婚を機に自分の前から姿を消した雄二を追いかけ、再会してからずっと……。
 陰の女でも構わないから貴方と一緒にいたいと。――伴侶に選ばれなかった身でありながら、望んではいけない願いを口にした瞬間から、彼を黙って送り出すことは、どんなに辛くても……百合香が絶対に守らねばならないルールだった。

 ――彼の家庭を壊さないこと。
 ――彼の家のことに踏み込み過ぎないこと。
 ――奥さんとお子さんから彼を奪わないこと。

 それが、愛人としての自分の立ち位置だと分かっている。

 だから、百合香は泣きたいのを必死に堪えて、いつも笑顔で雄二を送り出す。

 何も言わずに。
 何も望まずに。

 雄二と会えなくなるくらいなら、そんなの容易いことだと思っていた。簡単にできると思っていた。
 ――そのはずなのに。

 ソファの布地に、やんわりと爪を立てる。

(……ほんと、馬鹿)

 小さく苦笑が漏れる。
 割り切れているつもりで、ちっとも割り切れていない。

 分かっている。
 全部、分かっているのに。

 それでも――。

 百合香はそこで、ふと視線を目の前のローテーブルへ落とした。

 さっきまでは雄二が、すぐ隣に座っていた。
 何気ない仕草で机上からスマートフォンを手に取り、画面を眺めていたことを思い出す。

 そのときは、気にも留めなかったのに。

 たまたま……本当にたまたま、ほんの一瞬だけ見えた画面。
 視界の端に、文字が引っかかった。

『パパ、今度の週末あいてる?』
百香(ももか)ね、行きたいところがあるの』

 全文を読んだわけじゃない。それに対して雄二がどんな返信をしたのかも知らない。

 でも、それだけで十分だった。

 あのとき百合香は、雄二の横顔を見てはいけない気がして、思わず視線をそらした――。


「……雄ちゃんの子、もうあんなおしゃまなことを言う年になったんだ……」

 ぽつりとつぶやく。
 百合香の中で雄二の娘の映像は、生まれてすぐのころのままで止まっている。
 それ以降は写真を見せられることがなかったから。

 ――百香。

 その名前を、頭の中で思い浮かべる。
 その響きをなぞるだけで、わずかに胸がざわついた。

 知るべきではなかった。
 知らないままで、よかったのかもしれない。
 けれど、知ってしまった。

 その子の名前に込められたものを。

 それが、自分と無関係ではないことを。

(……困るよ、ほんと)

 自嘲するように、笑う。
 奪うつもりなんて、ない。
 そんな資格がないことも分かっている。

 でも――。

 百合香は望めなかった、愛する人との子供。
 その存在を()の当たりにして……その子の名前を自分の名から取ったと言われた時の衝撃を思い出す。

 あの子は百合香ではない別の女性が産んだ子で、愛しい人の子どもではあるけれど、自分とは無関係だと思いたかった。なのに、雄二がそれを許してくれなかった。
 その曖昧な距離が、どうしようもなく居心地が悪かった。

 けれど。

(百の、香り……)
 心の中で、そっとなぞる。
(雄ちゃんは私の名前から取ったって言ったけど……)
 それはきっと、彼の奥さんにとって、そうじゃない。

 百の花々の香り。
 たくさんの花が咲いて、そのすべてを束ねたような名前。

 ――百香。

 それに対して自分は、百合の花の香り。
 たった一輪の花の名を、そのまま持っているだけ。
 きっと、違う。
 重なるはずなんて、ない。

 彼の正妻が呼ぶ〝百香〟という名前に、自分はにじんでいない。

 私はあの子とは無関係――。

 ――そう、思うことでしか、雄二の妻……もっと言えばその名を《《背負わされて》》しまったお嬢さんに対して、申し訳なくて自分の立っている場所を保てない。

 百合香は、ゆっくりと背もたれに身を預ける。

 天井を見上げると、そこには何もない。
 ただ、静かな夜だけが広がっていた。

 ――ここは、見送るだけの場所。

 ふと……腕の中で、柔らかな気配が動いた。

「……しろ」

 呼びかけると、小さな影がゴロゴロと喉を鳴らした。
 その音も、昔より少しだけおとなしくなった気がする。
 腕の中の身体は、軽くなったのに――どこか頼るように預けられる重みだけが、前よりもはっきりと伝わってきた。
(しろも、歳を取ったんだね)
 そう思うと、不思議と胸の奥がじんわりと温かくなる。

 変わっていくものもある。
 それでも――こうして傍にいてくれるものが、ちゃんとある。

 百合香はそっと手を伸ばして、しろのあごを優しくくすぐった。

 指先に伝わる柔らかさ。
 規則正しい呼吸。
 そこにあるのは、嘘のない体温だった。

「……ありがと」

 誰に向けたのかも分からないまま、ぽつりとつぶやく。
 しろはただ、ゴロゴロと心地よさそうに喉を鳴らし続けている。

 何も変わらない。
 ここは、見送るだけの場所のまま。

 それでも――。

 ほんの少しだけ。
 しろのおかげでこの静けさが、やわらいだ気がした。
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