それぞれの幸せ
第8章 ここにはもう、いられない

第1節 千崎雄二『気づけないままで』

 十二月の初旬。

 空は低く、重たく垂れ込めていた。
 ちらちらと舞う雪は、積もるほどでもないくせに、確実に季節の深まりだけを告げてくる。

 その日――自分が桐生(きりゅう)百合香(ゆりか)の家を訪れた日の翌日にあったことを、千崎(せんざき) 雄二(ゆうじ)は知らない。

 いつもと変わらない一日だった。

 組のことで呼び出され、あちこちを回り、夜には適当に酒を流し込んで冷めきった妻の待つ家に帰る。

 それだけのこと。
 ――少なくとも、雄二はそう思っていた。


***


 金曜日。

 雄二は、珍しく午前中にランジェリーショップ『YURIKA』へ顔を出していた。


「……すみません、千崎さん……」

 運転席から降りてきた男に、後部シートのドアを開けられながら、申し訳なさそうに頭を下げられる。

 三井(みつい)隆司(たかし)は朝から外せない所用で席を空けていた。
 その隙を狙って『YURIKA』へ顔を出そうと思った雄二だったが、甘かった。

 事務所の外に出ると、見慣れた男が先に待っていた。

 ――佐山(さやま)文至(ぶんし)

 本来なら、組長・相良(さがら)京介(きょうすけ)が可愛がっている女、神田(かんだ)芽生(めい)の側にいるはずの男だ。

「三井のアニキの代わりに、俺が付くよう言われてます」

 簡潔な説明に、雄二は小さく舌打ちしたくなる衝動を飲み込む。

(……三井め、抜け目がないな)

 内心でだけ毒づく。

 とはいえ、佐山に当たる筋合いはない。
 あくまでこれは、上の連中の問題だ。

「……気にするな。お前は悪くない」

 短く返して、雄二は店の扉に手をかけた。
 カラン、とドアベルの軽い音が鳴った。

「いらっしゃいませ――」

 明るい声が店内に響く。
 だが、その声の主は、目当ての人物ではなかった。

店長(オーナー)は?」
 短く問う。
 一瞬、店員の顔に困った色が浮かぶ。
「申し訳ありません。本日、店長は……午前中だけお休みなんです」
 その言葉に、雄二はわずかに眉を寄せた。
「休み?」
 水曜以外に、百合香が店を空けることはほとんどない。
 体調を崩した、という話も聞いていないし、何より水曜日(おととい)会いに行った時も元気そうだった。

「はい……午後からは出ていらっしゃるんですが……」

 歯切れの悪い説明だった。

 ランジェリーショップという店の形態に慣れていないんだろう。背後で佐山が所在なさげにそわそわしながらも、雄二と店員のやり取りにしっかり聞き耳を立てているのが分かる。

 雄二は佐山にチラリと視線を流すと、それ以上は聞かなかった。
 ――いや、聞けなかった、という方が正しいかもしれない。
 下手に勘繰りすぎれば、佐山から三井にどんな報告がなされるか分からないからだ。

「……そうか。じゃあ、日を改める」

 それだけ言って、(きびす)を返した雄二のあとを佐山がそろそろとついてくる。

 店の外へ出ると、冷たい空気が頬を打った。
< 80 / 87 >

この作品をシェア

pagetop