それぞれの幸せ
 そう思ったのは、ほとんど反射だった。

 けれど――責める気持ちは、どこにもなかった。

(この子はきっと、言葉の意味を知らないだけだ)

 それだけで、十分だった。
 百合香は、そっと芽生の手を包み込む。

「芽生ちゃん」

 優しく呼びかける。
 百合香はほんの少しだけ間を置いてから「〝いろ〟って……どういう意味で言ってるの?」と穏やかに確認した。

「えっと……奥さんとか恋人。そういう大事な人、だと思っています」

 芽生の言葉に、百合香はやはり――と思う。
 芽生は、〝いろ〟の意味を取り違えているだけ。
 でなければ、自分みたいになりたいだなんて言うはずがない。
 百合香は困ったように眉根をほんのちょっと寄せると、それでもすぐさま、芽生を傷つけないよう表情を(やわ)らげた。
「芽生ちゃん、違うのよ。〝いろ〟っていうのはね、恋人じゃない。ほら、大人の男女の……割り切った関係……。……愛人、っていえば分かるかな……」
「え?」
「私は(ゆう)ちゃんの〝情婦(いろ)〟って言われてるけど……彼女じゃないし……ましてや奥さんでもないってこと」

 言葉を選びながら、静かに続ける。

「芽生ちゃんからは恋人同士みたいに見えてるかもしれないけど……違うの。――雄ちゃんには奥さんも子供さんもいるし、私とは……ちゃんと名前のある関係じゃないのよ」

 芽生の表情が、分かりやすく揺れる。
 それを見て、ほんの少しだけ胸が痛んだ。

(ああ……)

 やっぱり、この子は知らないままでいられる場所にいる。
 そのことが――ただ、まぶしくて、目を細めたくなる。このままでいて欲しい、と(こいねが)わずにはいられない。

 だからこそ、思う。
(この子にはせめて――私の分まで幸せになって欲しい)
 百合香は、そっと指先に力を込める。

「芽生ちゃんはね」
 少しだけ身を乗り出して、目を覗き込む。

「〝いろ〟なんか、目指さなくていいの」

 穏やかに。
 でも、逃がさないように。

「ちゃんと……好きな人の隣に、堂々と立てる人になって」

 それは、祝福で、同時に――自分には届かなかった場所の話だった。

「ちゃんと、相良さんの〝隣〟にいて?」

 芽生の手を握る指先に、知らず力がこもる。
 それは、百合香の切実な〝願い〟だった。

「……あの」
 百合香が言い終わった後、芽生が泣きそうな顔をして口を開いた。
「――ん?」
「私、組の方から京ちゃんにも〝いろ〟がいるって聞いたことがあるんです……。千崎さんは過去の話だって一蹴してくださったけど……でも、それって――」

 言葉が、続かない。
 当然だ。
 今、芽生の中で、何かが揺れているのが分かる。

 その問いに――百合香は、言葉を失った。

 答えは知っている。それはきっと、百合香と雄二の関係より、もっともっとドライな間柄の女性たちとの話。
 相良京介は雄二より(とお)も若いし、特定の相手がいるわけじゃない。百合香が選んだ芽生への下着へ戸惑ったという話も聞いた今となっては、芽生に対してそういう(よこしま)な眼差しを向けてはいけないと思っていた節すらある。
 だとしたら芽生のあずかり知らぬところで、性欲処理の相手がいても不思議じゃなかった。

 でも――。
 それを口にしてしまえば、この子の中の何かを壊してしまう気がした。

(どうしよう……)
 どう答えるべきか考えあぐねていたちょうどその時、タイミングよくチャイムの音が鳴った。
「……佐山さん、かしら」
 ほっとしたように、百合香は立ち上がる。
 佐山のもたらすものが、〝殿様と名付けられた猫〟であることは百も承知のうえ、それでも……百合香は芽生の問いかけから逃げるみたいにその場を離れた。

 パタパタと足音を響かせて寝室を後にしながら、
『――私みたいにならないで』
 言葉にならなかった想いが、胸の奥で静かに沈んでいった――。
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