それぞれの幸せ

第3節 千崎雄二『祝福の外側で』

 『雄相会(ゆうそうかい)』の事務所は、何も変わっていないはずだった。

 壁も、机も、並べられた書類棚も――すべてが整えられている。変わったのは、入口に掛け替えられた看板くらいのものだ。
 だがそれは、どこか〝借り物〟のようにも見えた。

 ここはもう、相良(さがら)京介(きょうすけ)が率いる『相良組』ではない。
 相良京介は、『葛西組』組長・葛西(かさい)了道(りょうどう)によって絶縁を言い渡され、二度と極道の世界へ足を踏み入れることができないようにされた。要するに堅気(かたぎ)へ戻されたのだ。
 ……了道なりの、親心というやつだろう。

 そう頭では理解している。それでも、身体のどこかがそれを拒んでいた。

「……千崎(せんざき)さん」
 呼びかけられ、雄二は顔を上げた。
 視線の先で、若い構成員が一瞬言葉を詰まらせる。
「……あ、すみません……。カシラ」
 言い直されたその呼び名に、雄二は何も返さなかった。
 訂正を受け入れるでも、否定するでもなく――ただ、わずかに間を置くだけだ。
「……用件を言え」
 短くそう告げると、男は慌てて手元の書類に視線を落とした。
 そのやり取りを終えたあとも、雄二の中には、言い直された言葉だけが残っていた。

(カシラ、か……)

 馴染まない。
 だが、もうそれ以外に呼びようはない。

 『相良組』は解散した。

 そして今、ここにあるのは――相良から託された新組織『雄相会』だ。

 その先頭に立っているのが、自分だという事実も、否応なく、現実としてそこにある。

 指示を出し、書類に目を通し、判断を下す。
 やるべきことは、明確だった。
 それでも、ふとした拍子に――思い出す。
 かつて、この席に座っていた男のことを。

 相良京介。

 誰も口にはしないが、全員が知っている。
 この場所に残っているものの重さを。

 指示を出すたびに、どこかで相良の声が重なる気がした。

 違うやり方でいいはずなのに、無意識にその影をなぞっている。

 それが、ひどく滑稽で――同時に、逃げ場のない現実でもあった。

 そんな中で、ひとつの話題が持ち上がる。

 相良京介の、結婚。

 相手は神田(かんだ)芽生(めい)

 相良が、まだ幼さの残る頃から気にかけていたあの娘が、正式に彼の隣に立つ。

 それ自体は、喜ばしいことのはずだった。

 だが。

(……俺も、うちのやつらも……誰一人祝いに行けねぇな)

 呟きにもならない思考が、胸の内で沈む。

 堅気(かたぎ)の集まる場に、極道である自分たちは立てない。
 祝福する資格がないわけではない。

 ただ――そこに立つことを、許されていないだけだ。

 自分たちが選んできた道が、それを決めている。

 雄二は、机の上の封筒に手を伸ばした。
 中には、金が入っている。

 『雄相会』の面々が勝手に持ってきたご祝儀だ。
 自分たちは行けないが、せめて世話になった相良を祝いたい。そういう気持ちの寄せ集めだった。

 それを持っていく人間は、もう決めている。
 というより、彼女にしか頼めなかった――。

 夜になり、雄二は車を走らせた。

 向かった先は、見慣れたマンションだ。

 インターホンを鳴らすまでもなく、扉は開いた。

「……いらっしゃい、雄ちゃん」

 柔らかな声。
 変わらない空気。
 だが、その内側にあるものが、少しずつ変わっていることを、雄二は知っている。

 部屋に入り、いつものように並んで座る。

 会話は多くない。
 それでも、不思議と沈黙は重くならなかった。

 差し出した封筒を、百合香が受け取る。

「……これ、みんなから」
「……うん。分かった」

 それ以上の説明は要らない。

 百合香は、何も聞かずに頷いた。

 しばらくして、雄二はふと口を開く。

「……明日、頼むな」
「任せて」

 短い会話。
 それだけで、すべてが通じる。
 本当は……このまま、ここにいたかった。
 何も考えず、朝まで――。

 だが。

「……また迎えに来る。明日はお前も支度で早いだろ? そろそろ帰る」

 立ち上がると、百合香は何も言わなかった。

 引き止めることもなく、ただ静かに見送ってくれる。
 その距離が、妙に現実的だった。

 部屋を出て、車に乗り込む。
 エンジンをかける手が、ほんのわずかに止まった。

(……俺が帰る場所はどこだ?)

 自嘲が、胸の奥に沈む。
 結局、ハンドルを切った先は――『雄相会』事務所だった。

 住み込みの若い衆は、すでに別の場所に移してある。
 共同生活をさせる方針は変わらないが――雄二の家には物理的な意味ではなく精神的な意味で、彼らを迎え入れる余裕はなかった。
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