それぞれの幸せ
「……雪絵が、そんなことを……」
「ああ。……一緒にいた娘も反対しなかった」
 間髪入れずに返される。
「……心当たりがねぇとは言わせねぇぞ」
 責める声音ではない。
 ただ、事実を確認するような言い方だった。

 それが余計に、身動きを奪う。

 雄二は、答えなかった。
 いや、答えられなかった、というほうが正しい。

 沈黙が落ちる。

 了道は、短く息を吐いた。
「……なぁ千崎。昨日は何の日か、覚えてるか?」
 低い声。
 試すようでも、突きつけるようでもない。
 ただ、確認するだけの問い。

 だが――。
 すぐには、思い当たるものがなかった。
 脳裏に浮かぶものが、何もない。
 その空白が、やけに長く感じられた。

 了道が、わずかに眉をひそめる。
「……まさかてめぇ、本気で忘れてたのか。昨日は――お前の女房の誕生日だ」

 その一言で、時間が止まる。
 遅れて、理解が追いついた。
(……ああ、そうか)
 胸の奥に、鈍い何かが落ちる。
 思い出したわけではない。
 突きつけられて、ようやく思い至っただけだ。
 結婚する前、一度だけ三井に言われて雪絵の誕生日を祝ったことがある。
 三井の言葉を馬鹿正直になぞって、イチゴの乗った、小さなケーキを買って帰った。

 それだけだ。
 考えてみれば、雪絵の誕生日を祝ったのは、その一度きりだった。
 一緒に暮らしていながら、自分は雪絵の誕生日を覚えようとしたことがない。
 そればかりか、年に一度は必ず訪れていたであろうその日を、気に掛けたことすらなかった。
 百香の誕生日も、百合香の誕生日も――祝わなかったことはないのに、だ。

「ご馳走を作ってケーキを用意してな。百香と二人、お前が帰ってくるのを待ってたそうだ」

 了道の声に、雄二は視線を落とした。

 何も言えない。
 言葉が出てこない。

「……結婚してから一度も、祝ってやってねぇんだってな」
 淡々とした指摘。
「それでもな、今年は違うかもしれねぇって思ったらしい」
 その言葉に、雄二の指がわずかに動いた。
「お前が〝会長(カシラ)〟になったからだとよ」
 静かな声だった。
 だが、その中に含まれているものは重い。

「立場が変われば、人も変わるかもしれねぇってな」
 そこで、初めて……雄二の胸の奥に、何かが引っかかった。

 昨夜の光景が、遅れて浮かぶ。
 百合香の部屋を後にしたにもかかわらず、雄二は家には帰らなかった。

『今夜は帰れない――』

 それだけを伝えて、電話を切った。
 水曜日ならまだしも、昨日は金曜の夜だった。

(……雪絵)

 そのとき、彼女は娘と二人、何をしていたのか。
 何を思っていたのか。
 考えたことすら、なかった。

 理解したのは、今になってからだ。

 そして、その理解は――今更したところで取り返しがつかない。

「……そんな日に」
 了道の声が、わずかに低くなる。
「愛人のとこに入り浸ってたとなりゃあな」
 責めるというより、呆れに近い響きだった。
「俺でも、腹に据えかねる」

 雄二の肩が、わずかに揺れる。
 真実はどうあれ、家に帰らなかったことは、紛れもない事実だ。
 否定はできない。
 言い訳も、するだけ無駄だ。

 ただ〝外泊をした〟という事実だけが、そこにある。

 了道はしばらく雄二を見据えたあと、ゆっくりと口を開いた。

「……千崎」
 低く、重い声。
「今度こそ、筋を通せ」
 その一言で、すべてが決まる。
「雪絵と百香に、ちゃんと向き合え」
 逃げ場は、ない。
 最初から、なかった。
「その上でなら――」
 わずかに間が空く。
「テメェの抱えてるもんも、どうにかしてやる」

 雄二は、顔を上げなかった。

 拳を、静かに握り締める。
 言葉は出てこない。

 だが。

「……わかりました」

 絞り出すように、それだけを告げた。

 了道は、それ以上は何も言わなかった。
 ただ一度だけ、ゆっくりと頷いた。

 その意味を、雄二は理解している。

 ――ここから先は、自分でやれ。

 そういうことだ。

 座敷を出る頃には、すでに理解していた。
 もう、後戻りはできない。
 何かを選ぶしかない。
 選んだ結果がどうなるのかも――すべて、自分で引き受けるしかない。
< 89 / 122 >

この作品をシェア

pagetop