それぞれの幸せ
 言い終えると、百香はぱっと離れて、いつも通りの笑顔を浮かべる。

「いってきます!」

 何事もなかったみたいに、もう一度手を振って、外へ飛び出していった。

 その背中を見送りながら、雪絵は――ほんの少しだけ、目を細める。
 胸の奥に、あたたかいものが残ったまま、静かに息を吐いた。

 それから、居間へと向き直る。
 ネクタイを締め終えた雄二が、靴を履きに出てきたところだった。

「雄二さん」

 声をかける。
 ほんの一瞬、ためらってから、
「……今夜は、早く戻っていらっしゃいますか?」
 なんでもないことのように問いかけた。
 自分の誕生日であることは、言わなかった。

 言えば、少しは気に掛けてもらえるかもしれない。
 けれど、それをしたくなかった。

 雪絵が要求したから帰ってくるのではなく、何も言わなくても思い出して帰ってきて欲しかった。

 ――そんな、子どもみたいな願い。

 結婚してから一度も祝われたことがないのに、(はかな)い希望なことは分かっていた。

 雄二は、常にはない雪絵の言動に何事かと思ったんだろう。少しだけ考えるような間を置いてから、視線を外したまま答えた。
「……なるべく善処する」
 それだけだった。
「……分かりました」
 それ以上は、何も聞かない。
 何かあるのか? とも、どうして欲しいのか? とも雄二は聞いてくれなかったから。

 雪絵は《《いつも通り》》の隙のない冷たい微笑みを作る。
「お待ちしていますね」
 言葉では期待しているようなことを言いながら、態度では雄二に縋り切れない。小さなプライドが本音を邪魔して、決して自分を愛してくれない男相手に、馬鹿なことを言ってしまったとすら、考えさせてしまう。

「……ああ」

 ドアの閉まる音が、やけに遠く感じられた。
 振り返らず出ていく雄二の背中から、〝期待はするな〟と言われている気がした。

(……やっぱり覚えていないのね)

 分かっていたことなのに。
 胸の奥が、ほんの少しだけ軋んだ。


***


 夕方。
 百香が、学校から帰ってきた。

「ただいまー!」
「おかえりなさい」

 ランドセルを部屋へ置いて戻ってくるなり、百香はぱっと顔を輝かせる。

「ママ! 朝も言ったけど……今日はママのお誕生日だね!」
 その一言に、雪絵は一瞬だけ息を詰めた。
「……そうね」
「パパ、今年こそは一緒にお祝いしてくれるかな!?」

 無邪気な期待。
 けれど、その言葉の裏にあるものを、雪絵は知っている。

 これまで一度も、母である雪絵の誕生日が、父からまともに祝ってもらえたことがないことも。
 それでも毎年、百香が〝今年こそは〟と期待してくれていることも。

 雪絵は、ゆっくりと首を振った。
「パパは忙しいから。ママの誕生日のことで(わずら)わせたらダメなのよ」
「……うん、それは分かってる。でも……」
 百香は素直に頷きながらも、でも、と言葉を濁した。

 ――でも、百香の誕生日は毎年祝ってくれるのに……。

 娘と妻とでは何かが違うのだろうか?
 きっと、百香はそれを図りかねている。

 百香の表情に浮かんだわずかな影を、雪絵は見逃さなかった。

 娘にそんなことを気遣わせてしまう雄二と自分の関係が、堪らなく申し訳なく思えた。


***


「百香がお皿用意するね」

 二人で、食事の支度をする。

 普段よりも少しだけ手の込んだ料理。
 百香は楽しそうに手伝いながら、何度も玄関の方を気にしていた。

 毎年のことだけれど、一応ケーキも用意した。
 例年より少しだけ大きな号数にしたのは、もしかしたら……という思いがあったからだ。

 箱を開けると、甘い香りがふわりと広がる。

(……期待しすぎちゃダメ)

 そう、自分に言い聞かせる。
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