それぞれの幸せ
 今日はただの誕生日ではない。

 ――最後の確認。

 雄二が帰ってきてくれたら……まだやり直せるかもしれない。

 カシラになった今なら……上に立つ者のけじめとして、少しは変わってくれるかもしれない。

 そんな、最後の希望。

 ふと見つめた先で、百香が珍しくスマートフォンを触っていることに気が付いた。
 どうやら何かを打ち込んでいるらしい。雪絵が声をかけるより先に、送信ボタンを押してしまう。

 雪絵からは死角になっていて見えなかったけれど、百香のスマホには【パパ、今日は早く帰ってこられる?】という、父親宛のメッセージが表示されていた。
 それは、百香なりの小さな勇気だった。なんだかいつもと様子が違う母に、このままじゃいけないと思った結果だった。

 すぐさま既読がつく。

 百香は、祈るような気持ちで端末をぎゅっと握りしめた。

 ――その直後。

 雪絵のスマートフォンが、鳴った。

 画面に表示された名前を見て、雪絵の指先がわずかに震える。
(雄二さん……)
 今朝――、勇気を出して口にした言葉を思い出す。
 もしかしたら、『今から帰る』という連絡かもしれない。

 淡い期待を胸に、雪絵は通話ボタンを押した。

「……はい」
『今夜は帰れない――』

 短い一言だった。
 謝罪も、理由も、説明もない。

 ただ、それだけ。

 雪絵は、一瞬だけ言葉を失った。

 けれど。

「……分かりました」

 それしか言えなかった。
 責めることも、問い詰めることもできない。

 通話が切れる。
 静寂が戻る。

 雪絵は、ゆっくりと顔を上げた。

 百香の方を見る。
 百香は、画面を見つめたまま動かない。

 既読のまま、返事のないスマートフォンと睨めっこをしながら……自分が送ったメッセージに返信がない理由を……、そうしてメッセージが既読になったと同時に母の携帯が鳴ったことの意味を、きっともう理解しているのだろう。
 ――今年も同じなんだ、と。
 小さな手が白くなるぐらいぎゅっとスマートフォンを握りしめているのが、雪絵の胸を締め付けてくる。

 百香は、父親のことが大好きだ。
 けれど。
 雪絵が誕生日のたび、寂しそうにしていたことも、知っている。

 雪絵は、唇を噛んだ。

 泣きそうになるのを、必死で堪える。

(――この子の前で、泣いちゃダメ)

 そう思った。

「……百香」

 静かに呼びかける。

 百香が顔を上げる。

「ママ……パパ、今日も《《お仕事》》なんだよ、ね?」
「……ええ」
「夜にそんなにお仕事ってあるものなの?」
 よそのお家ではそんなことはないのだと……百香の目が語っていた。

 ずっと幼いと思っていたけれど、百香だってもう一〇歳を超えている。雪絵が思う以上に、〝大人の事情〟を理解しているのかもしれない。

 でも、それ以上は言わせたくなくて……雪絵はぐっと拳を握りしめた。

「あのね……」

 一度言いかけて、言葉を飲み込む。
 それでも思い直したように百香の顔をまっすぐに見つめて、静かに続けた。

「……ママ、パパとさよならしてもいい?」

 百香の目が、わずかに揺れる。
 ほんの少しだけ、迷うような沈黙。

 けれど。

 やがて、小さく頷いた。

「……うん」

 その一つで、すべてが決まった。

「……ありがとう」

 雪絵は微笑む。本当は「ごめんね」と付け加えるべきなのは分かっていた。でも、それを《《自分が》》言うのは何かが違う気がした。

 代わりに、そっと手を差し出す。
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