それぞれの幸せ
「了道おじちゃんのところ、一緒に来てくれる?」
「……うん」
百香は、躊躇いながらもその手を取ってくれた。
雄二と別れるにはただ家を出ればいいわけではない。
極道の妻として、筋を通さなければならない。
『葛西組』組長、葛西了道に――。
雪絵にとっては、父のように見守ってくれた人。
でも、今日は千崎雄二の妻として……『雄相会』会長の妻として……けじめを付けに行く――。
自分が了道に告げて始めた結婚だ。逃げるのではなく、筋を通してきちんと、終わらせねばならない。
テーブルの上には、手つかずの料理とケーキが並んでいる。
その光景を、雪絵は一度だけ見つめた。
――もう、待たない。
そう決める。
娘の手を、しっかりと握る。
極道の妻として。
百香の母として。
雪絵は、家を出た。
***
夜の空気は、思っていたよりも冷たかった。
父を亡くしてから雄二と出会うまでの十年近くを過ごした家――葛西了道の屋敷の前に立ち、雪絵は一度だけ足を止めた。
(……了道おじちゃんに会ったら……もう戻れない)
分かっている。
ここに来ると決めた時点で、後戻りはしないつもりだった。
「……行きましょう」
そう言って、雪絵は百香の手を握り直す。
玄関先で名を告げると、すぐには通されなかった。
「申し訳ありません、雪絵さん。ただいまオヤジは来客中でして……」
部屋住みの若い衆の言葉に、雪絵は小さく頷く。
「……構いません。終わるまで、こちらで待たせていただいても?」
そう答えながら視線を落とすと、玄関先に見慣れない男物の靴が一足、きれいに並べ置かれていた。
手入れの行き届いた革靴。
一目で上等だと分かるそれに、来客の身分が知れる。
「いや、それは……っ。雪絵さんとお嬢さんをこんなところで待たせたと知られちゃあ、俺がオヤジに叱られてしまいます! あの、ちょっと姐さんに聞いてきますんで、待ってていただけますか?」
困ったように眉を寄せる若い衆の様子に、雪絵は思わず口を開いた。
「……佳代おばちゃん、起きてるの?」
〝姐さん〟と呼ばれたのは、了道の妻――佳代のことだ。
その名が出るということは、彼女はまだ休んでいないのだろう。
「はい。姐さんはオヤジを置いて休まれたりしませんので」
屋敷の奥から、低く抑えた男たちの声がかすかに聞こえてくる。
雪絵は、もう一度革靴へ視線を落とした。
靴からして、来客はただの使いの者ではないだろう。
恐らくは、了道と対等に言葉を交わせる人物だ。
(……私、何をしているの)
胸の奥が、きゅっと縮む。
こんな時間に、アポもなくいきなり訪ねてくるべきではなかった。
すぐ横で、百香が心配そうに雪絵の顔を見上げてくる。
娘も巻き込んでしまったのだ。
今さらここで引き返すわけにはいかなかった。
佳代が出てきてくれれば、何とかなる気がする。
「……では、お願いします」
そう言って眼前の男に頭を下げたと同時、奥の方から足音がふたつ、近づいてきた。
了道のあとから歩いてきて、玄関先に立ったままの雪絵と百香に視線を投げかけて来た老人に向かって、了道が「……気にすんな。祝いの品、頼んだぞ?」と念押しをして見送る。
気にすんな……は、こんな夜半に了道を訪ねて来た雪絵と百香の存在に対してだろう。
雪絵は、すぐそばで革靴を履いて立ち上がった男に、百香と二人、慌てて頭を下げた。
「すみません、来客中だったのですね」
男が玄関を出たのを見計らって、雪絵は申し訳なさに小声になった。
「構わん。大した用じゃねぇ。それより雪絵、なんかあったのか、百香まで連れて……」
低い声。
雪絵は深く頭を下げた。
「……うん」
百香は、躊躇いながらもその手を取ってくれた。
雄二と別れるにはただ家を出ればいいわけではない。
極道の妻として、筋を通さなければならない。
『葛西組』組長、葛西了道に――。
雪絵にとっては、父のように見守ってくれた人。
でも、今日は千崎雄二の妻として……『雄相会』会長の妻として……けじめを付けに行く――。
自分が了道に告げて始めた結婚だ。逃げるのではなく、筋を通してきちんと、終わらせねばならない。
テーブルの上には、手つかずの料理とケーキが並んでいる。
その光景を、雪絵は一度だけ見つめた。
――もう、待たない。
そう決める。
娘の手を、しっかりと握る。
極道の妻として。
百香の母として。
雪絵は、家を出た。
***
夜の空気は、思っていたよりも冷たかった。
父を亡くしてから雄二と出会うまでの十年近くを過ごした家――葛西了道の屋敷の前に立ち、雪絵は一度だけ足を止めた。
(……了道おじちゃんに会ったら……もう戻れない)
分かっている。
ここに来ると決めた時点で、後戻りはしないつもりだった。
「……行きましょう」
そう言って、雪絵は百香の手を握り直す。
玄関先で名を告げると、すぐには通されなかった。
「申し訳ありません、雪絵さん。ただいまオヤジは来客中でして……」
部屋住みの若い衆の言葉に、雪絵は小さく頷く。
「……構いません。終わるまで、こちらで待たせていただいても?」
そう答えながら視線を落とすと、玄関先に見慣れない男物の靴が一足、きれいに並べ置かれていた。
手入れの行き届いた革靴。
一目で上等だと分かるそれに、来客の身分が知れる。
「いや、それは……っ。雪絵さんとお嬢さんをこんなところで待たせたと知られちゃあ、俺がオヤジに叱られてしまいます! あの、ちょっと姐さんに聞いてきますんで、待ってていただけますか?」
困ったように眉を寄せる若い衆の様子に、雪絵は思わず口を開いた。
「……佳代おばちゃん、起きてるの?」
〝姐さん〟と呼ばれたのは、了道の妻――佳代のことだ。
その名が出るということは、彼女はまだ休んでいないのだろう。
「はい。姐さんはオヤジを置いて休まれたりしませんので」
屋敷の奥から、低く抑えた男たちの声がかすかに聞こえてくる。
雪絵は、もう一度革靴へ視線を落とした。
靴からして、来客はただの使いの者ではないだろう。
恐らくは、了道と対等に言葉を交わせる人物だ。
(……私、何をしているの)
胸の奥が、きゅっと縮む。
こんな時間に、アポもなくいきなり訪ねてくるべきではなかった。
すぐ横で、百香が心配そうに雪絵の顔を見上げてくる。
娘も巻き込んでしまったのだ。
今さらここで引き返すわけにはいかなかった。
佳代が出てきてくれれば、何とかなる気がする。
「……では、お願いします」
そう言って眼前の男に頭を下げたと同時、奥の方から足音がふたつ、近づいてきた。
了道のあとから歩いてきて、玄関先に立ったままの雪絵と百香に視線を投げかけて来た老人に向かって、了道が「……気にすんな。祝いの品、頼んだぞ?」と念押しをして見送る。
気にすんな……は、こんな夜半に了道を訪ねて来た雪絵と百香の存在に対してだろう。
雪絵は、すぐそばで革靴を履いて立ち上がった男に、百香と二人、慌てて頭を下げた。
「すみません、来客中だったのですね」
男が玄関を出たのを見計らって、雪絵は申し訳なさに小声になった。
「構わん。大した用じゃねぇ。それより雪絵、なんかあったのか、百香まで連れて……」
低い声。
雪絵は深く頭を下げた。