それぞれの幸せ
「実は……」
 口を開きかけた雪絵を制して、了道が百香に声を掛ける。
「なぁ百香よ、プリン、食うか?」
「……うん」
「……よし、じゃあいつまでもそんなトコに突っ立てねぇで、中、入れ」

 百香の頭をガシガシ撫でると、了道が雪絵にも視線で上がるように促した。


***


 通されたのは、応接間だった。

 すぐさま了道の妻・佳代が手作りプリンを二つ持って現れる。

「……いらっしゃい、雪絵ちゃん、百香ちゃん」

 柔らかい声。
 けれどその目は、すべてを察しているようだった。

「……こんな時間にごめんなさい」

「いいのよ。……話、私にも聞かせて?」

 その言葉に、雪絵の喉がわずかに詰まる。

 逃げ場は、ない。
 だからこそ、ここに来たのだと、自分に言い聞かせる。

「……雄二さんと、別れさせていただきたく思っております」

 はっきりと、そう言った。
 部屋の空気が、静かに張り詰める。

「……理由は?」

 了道が静かな声音でそう問うた瞬間、雪絵の隣でプリンをすくったばかりの百香の手が、一瞬だけピクッと跳ねた。

「百香ちゃん、おばちゃんとあっちでテレビ観ようか」

 その様子を察して、自分も話を聞きたいと言ったはずの佳代が、百香を部屋から連れ出してくれようとする。
 だけど百香はふるふると首を振った。

「百香も……ママがパパとさよならしたい理由……ちゃんと知りたい」

 百香の言葉に、雪絵は一瞬だけ目を伏せた。

「……私が、至らなかったからです」

「……そうか」

 それ以上、了道は追及しなかった。

 その代わりに、視線が百香へと移る。
 百香は、その視線を真正面から受け止めた。
 逃げなかった。

 そのことに、雪絵は気づいていた。

 そのときだった。
「……ママ」
 百香が、小さく口を開く。
「……パパ、どうして帰ってこないの? それも、ママのせい? 違うよね?」

 雪絵の心臓が、強く打った。

「……お仕事が忙しくて――」
「……違うでしょ?」

 遮るように、百香が言う。
 その声は、震えていた。

「……パパ、他に女の人いるんじゃないの?」

 空気が、凍りついた。

 雪絵の視界が、わずかに揺れる。

「……百香、それは――」

 自分が認めたせいだと告げようとした瞬間。

「――雪絵」

 低い声が、割り込んだ。
 了道だった。

 視線だけで、制される。
 その圧に、雪絵は言葉を失った。

 名を呼ばれた瞬間、「そのことは言うな」と言われた気がした。

 そうして、雪絵にはその意図が嫌でも分かってしまう。

 胸の奥が、ひどく冷える。
 これは、指示ではない。
 選択を迫られているのだ。
 母として、どちらを取るのかを。

 百香と、一緒に生きるのか。
 それとも――すべてを正直に話して、百香に選択を委ねるのか。

 了道は、何も言わない。
 けれど、その沈黙が、すべてを物語っていた。

 百香は、雪絵の顔を見つめている。
 答えを、待っている。

 雪絵は、唇を噛んだ。

(――私は……それでもやっぱりこの子と、一緒にいたい)

 その想いが、胸の奥で揺らぐ。

 そして。

「……パパね」
 静かに、言い聞かせるように。
「……ママより、大事にしたい人がいるの」
 そう、言った。

 半分は嘘で、半分は本当だった。

 雪絵は最初から分かっていた。
 雄二が、自分を心から愛することはないと。
 それでも婚姻を望んだのは、他ならぬ自分だ。
 跡継ぎを得ることと引き換えに、愛人との関係を黙認する――そんな(いびつ)な約束を、雄二と自分に課した。

 けれど。

 もし、この子の名にまで、その面影が滲んでいなかったなら、雪絵はもっと長く自分を騙していられたのかもしれない。

 子どもに関することだけは、絶対に侵してはならない領域だと――雄二も分かってくれていると信じていた。

 そこを踏みにじられたと気づいたとき、何かが音もなく崩れたのだ。
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