それぞれの幸せ
終わったはずの感情が、胸の奥底へ沈んだまま消えずに残る。
澱のように溜まり、やがて黒く濁っていく。
(……どうして)
胸の奥で、声にならない問いが渦巻く。
(この子に、やってはいけないことをしたくせに……どうして帰ってこないの)
もし雄二が、愛人の名から名付けた〝百香〟を、心から慈しんでくれたなら。
そのおこぼれで、自分もまた大切にされていると――そう思い込めたかもしれない。
だが、現実は違った。
雄二は百香からのメッセージにも、報いてくれなかった。
だからこそ、別れようと決めた。
これは、雪絵一人の過ちではない。
そうでなければ、あまりにも報われない。
雄二には悪いけれど、百香と一緒にいるために、全責任を彼に被ってもらおうと思った。
卑怯なことは百も承知だ。
でも、百香を失わないためならとことん悪女になろうと思った。
百香は、しばらく雪絵を見つめていた。
何かを量るように、静かに。
やがて、小さくつぶやいた。
「……そっか。パパのせい……なんだね……」
その一言が、ひどく重かった。
「……百香ちゃん」
その場の空気を変えるように、佳代が口を開く。
「こっちで少し休みましょうか」
「……でも」
「大丈夫。お母さんもすぐに来るから」
泣きそうな顔をした百香に、佳代が優しく手を差し伸べる。
百香は一瞬だけ雪絵を見た。
雪絵は、静かに頷いた。
「……行ってらっしゃい」
百香は、佳代に手を引かれて部屋を出ていった。
その背中が、扉の向こうに消える。
静寂が、戻る。
しばらくの静寂を挟んで、了道がゆっくりと口を開いた。
「……千崎に、百香を渡す気はねぇんだな?」
問いのようでいて、問いではなかった。
雪絵の覚悟を図る、確認だった。
雪絵は、わずかに目を伏せる。
「……はい」
それ以外の答えは、なかった。
「……なら」
了道の声が、さらに低くなる。
「……さっきのまんま、あいつに全部背負わせろ。百香の前じゃあ、もう決して揺れるな」
空気が、重く沈む。
「……そのくらいの覚悟がねぇなら、最初から嘘なんてつくもんじゃねぇ」
はっきりと、言い切られた。
雪絵の胸が、強く締め付けられる。
――分かっている。
それが、どういうことか。
百香にとって、父親は――母を捨てた〝最低な男〟に。
そうして自分は、そんな夫を一途に愛した可哀想な女――〝守られる側〟になる。
それを、選ぶのだと。
「……千崎はきっと、お前が選択したことを覆すような、器の小さい男じゃねぇ」
了道が、続ける。
「……最初の一手はお前が打ったんだ。千崎をとことん悪者にしろ」
その言葉は、冷たく、現実的だった。
情ではなく、理で動く男の声。
「……けどな」
そこで、わずかに間が落ちる。
了道の視線が、真っ直ぐに雪絵を射抜いた。
「……千崎と別れたい本当の理由は、それじゃねぇだろ」
雪絵の呼吸が、一瞬だけ止まる。
「……あいつに女がいることなんざ、今さらだ。最初から分かってたはずだろうがよ」
言葉を継がせないように、淡々と続けられる。
「……それを認める代わりに、子を為す権利は自分に。――そういう話で、あいつと所帯を持ったはずだ」
図星だった。
否定の言葉が、出てこない。
「……今になって、それをひっくり返すような女じゃねぇだろ。お前は」
静かな声だった。
だが、逃げ道はない。
雪絵は、唇を噛んだ。
――言うつもりは、なかった。
けれど。
この男には、誤魔化せない。
澱のように溜まり、やがて黒く濁っていく。
(……どうして)
胸の奥で、声にならない問いが渦巻く。
(この子に、やってはいけないことをしたくせに……どうして帰ってこないの)
もし雄二が、愛人の名から名付けた〝百香〟を、心から慈しんでくれたなら。
そのおこぼれで、自分もまた大切にされていると――そう思い込めたかもしれない。
だが、現実は違った。
雄二は百香からのメッセージにも、報いてくれなかった。
だからこそ、別れようと決めた。
これは、雪絵一人の過ちではない。
そうでなければ、あまりにも報われない。
雄二には悪いけれど、百香と一緒にいるために、全責任を彼に被ってもらおうと思った。
卑怯なことは百も承知だ。
でも、百香を失わないためならとことん悪女になろうと思った。
百香は、しばらく雪絵を見つめていた。
何かを量るように、静かに。
やがて、小さくつぶやいた。
「……そっか。パパのせい……なんだね……」
その一言が、ひどく重かった。
「……百香ちゃん」
その場の空気を変えるように、佳代が口を開く。
「こっちで少し休みましょうか」
「……でも」
「大丈夫。お母さんもすぐに来るから」
泣きそうな顔をした百香に、佳代が優しく手を差し伸べる。
百香は一瞬だけ雪絵を見た。
雪絵は、静かに頷いた。
「……行ってらっしゃい」
百香は、佳代に手を引かれて部屋を出ていった。
その背中が、扉の向こうに消える。
静寂が、戻る。
しばらくの静寂を挟んで、了道がゆっくりと口を開いた。
「……千崎に、百香を渡す気はねぇんだな?」
問いのようでいて、問いではなかった。
雪絵の覚悟を図る、確認だった。
雪絵は、わずかに目を伏せる。
「……はい」
それ以外の答えは、なかった。
「……なら」
了道の声が、さらに低くなる。
「……さっきのまんま、あいつに全部背負わせろ。百香の前じゃあ、もう決して揺れるな」
空気が、重く沈む。
「……そのくらいの覚悟がねぇなら、最初から嘘なんてつくもんじゃねぇ」
はっきりと、言い切られた。
雪絵の胸が、強く締め付けられる。
――分かっている。
それが、どういうことか。
百香にとって、父親は――母を捨てた〝最低な男〟に。
そうして自分は、そんな夫を一途に愛した可哀想な女――〝守られる側〟になる。
それを、選ぶのだと。
「……千崎はきっと、お前が選択したことを覆すような、器の小さい男じゃねぇ」
了道が、続ける。
「……最初の一手はお前が打ったんだ。千崎をとことん悪者にしろ」
その言葉は、冷たく、現実的だった。
情ではなく、理で動く男の声。
「……けどな」
そこで、わずかに間が落ちる。
了道の視線が、真っ直ぐに雪絵を射抜いた。
「……千崎と別れたい本当の理由は、それじゃねぇだろ」
雪絵の呼吸が、一瞬だけ止まる。
「……あいつに女がいることなんざ、今さらだ。最初から分かってたはずだろうがよ」
言葉を継がせないように、淡々と続けられる。
「……それを認める代わりに、子を為す権利は自分に。――そういう話で、あいつと所帯を持ったはずだ」
図星だった。
否定の言葉が、出てこない。
「……今になって、それをひっくり返すような女じゃねぇだろ。お前は」
静かな声だった。
だが、逃げ道はない。
雪絵は、唇を噛んだ。
――言うつもりは、なかった。
けれど。
この男には、誤魔化せない。