同じ場所に立つまで、恋じゃなかった
第9話¦かわいくない
カフェの窓際の席には、ひよりが着いたとき、すでにカナが座っていた。午後の光がガラス越しに入り、テーブルの端に淡い影を落としている。グレージュのロングヘアをゆるく巻いた髪が、カナの肩から背中にかけて自然に流れていた。巻き髪は派手に見えるのに、本人の雰囲気は不思議と落ち着いている。服もメイクも今どきで、流行をちゃんと押さえているのに、声を張ることはなく、笑うときも控えめだ。そのバランスを、カナ自身も分かっているように見えた。
同じ大学の友人で、学部は違う。けれど、週に一度は顔を合わせる間柄だった。ひよりにとってカナは、数少ない「ちゃんと話せる相手」だった。何でも話せる、という意味ではない。話したくないことを、無理に聞いてこない相手。聞かれないことが、こんなにも楽だと教えてくれた存在だった。
カナは手元のスマホから顔を上げ、ひよりを見つけると軽く手を振った。
「遅くない?」
「ごめん、電車が」
「嘘でしょ」
カナは責める調子ではなく、分かっている嘘を楽しむみたいに言った。ひよりはそれに小さく笑って、向かいの席に腰を下ろす。椅子を引く音が、思ったより静かに響いた。
メニューを開いて、適当に飲み物を頼む。カナの前には、すでにカフェラテが置かれていた。白いカップの縁に、口紅がほんの少しだけ残っている。ひよりは紅茶を選んだ。注文を終えると、カナはスマホを伏せ、ようやくこちらに意識を向ける。
「で、どう? バイト」
「普通」
「普通って、つまんないやつ?」
「いや、普通に、普通」
言葉を重ねながら、ひよりは曖昧な位置に返事を置く。カナは少しだけ首を傾げて、ひよりの顔を見た。その視線に気づいて、ひよりは一瞬遅れて目を逸らす。逸らしたことで、カナは何かを察したみたいに、口元だけで笑った。
「なんか、あった?」
「何もない」
「嘘」
軽い言い方だった。軽いのに、逃げ道を残さない言葉だった。
ひよりは小さく息を吸って、吐く。時間を作るみたいに、背筋を伸ばす。
「……同じバイトの人と、仲良くなった」
「へえ」
カナは少し身を乗り出す。巻き髪が肩から滑り、指先でそれを耳にかけた。その仕草が自然で、ひよりは理由もなく目を奪われる。羨ましい、とまでは言えない。ただ、目に残る。
「どんな人?」
「……年下」
「年下! いいじゃん」
声が少し弾む。その弾みが、ひよりには眩しかった。
「深夜バイトで、ファミレス行ったりして」
「ファミレス! それ、かわいいじゃん」
カナは素直に笑った。その笑い方が本当に楽しそうで、ひよりは少しだけ救われる。救われながら、同時に胸の奥がきしむ。
「年下で、深夜バイトで、ファミレスってさ。普通にかわいくない?」
ひよりはそのとき、否定しなかった。否定する理由が見つからなかったというより、否定できるほど言葉が整っていなかった。
「かわいい恋じゃん。バイトで出会って、仲良くなったって。羨まし!おとと」
あ
安心している声音だった。ひよりを安全な場所に置こうとしている声だった。ひよりは運ばれてきた紅茶に口をつける。思ったより熱くて、少しだけ眉を寄せる。熱さに紛れて、間を稼ぐ。
「……ファミレスだけじゃ、ない」
カナの表情が一瞬だけ止まる。止まったまま、何も言わない。カップを持ち上げ、一口飲んでから、ゆっくりとテーブルに戻す。
「そっか」
それだけ言って、話題を変えた。天気、授業、どうでもいい近況。カナは空気を散らすのが上手だった。ひよりもそれに乗る。乗りながら、胸の奥に引っかかったものが消えない。
カナは深く聞かない。察しているのに、詮索しない。詮索しないことで、ひよりに逃げ道を残してくれている。その距離感が、ありがたくて、少しだけ寂しい。
しばらくして、カナが話を切った。切り方が自然すぎて、ひよりは遅れて身構える。
「……それで」
カナはすぐに続きを言わない。ひよりが何も言わないままでいるのを確かめてから、静かに問いを戻す。
「また、会ってるの?」
問いそのものは短い。責める調子でも、詮索する言い方でもない。けれど、その一語だけが、ひよりの中に不自然に残った。会っていること自体は、もう隠していない。バイト仲間で、顔を合わせている。それは最初に伝えている。説明は、すでに済んでいるはずだった。
それなのに、カナは「また」と言った。
続いていること。繰り返していること。そして、ひより自身がまだ言葉にしていない部分まで――その一語は、そこまでまとめて指してくる。事情ではなく、頻度でもなく、「状態」を見抜いている言い方だった。カナは知らないふりをしているだけで、何も知らないわけじゃない。そのことに、ひよりは遅れて気づく。
ひよりはカップを見つめたまま、動けなかった。視線を上げれば、その「また」を肯定してしまう気がした。否定も説明もできないまま、時間だけが一拍遅れる。
スプーンが縁に触れて、小さな音を立てる。その音だけが、ひよりの代わりに返事をしていた。
一度きりのつもりだったはずなのに。
いつの間にか、「一度きり」と言い聞かせる必要がなくなっていた。会うことが前提になっていた。
カナは何も言わない。ただ、ひよりを見る。その視線は責めていない。ただ心配している。そのことが、ひよりには少しだけ辛かった。
「無理してないなら、いいと思う」
それだけ言って、それ以上は踏み込まない。距離を保ったまま、ひよりの横に立つ。その立ち位置が、優しすぎる。
「……かわいくないよね」
ひよりは、誰に向けるでもなく呟いた。自分の中に落として確認するみたいな声だった。小さくて頼りない。でも、その言葉は、カナのいる位置まできちんと届いていた。かわいくない、と言ってしまった瞬間、ひよりの中で何かが静かに確定する。否定したいわけじゃない。ただ、否定できないことを、ようやく言葉にしただけだった。
「かわいい恋ってさ」
ひよりは、少しだけ間を置いてから口を開く。
「もっと安全で、もっと分かりやすいでしょ」
自分を責める響きはなく、正解を押しつける言い方でもない。ただ、世間一般の“かわいい”を、そのまま並べただけの声だった。ひよりはそのあと黙ってカップの縁を見つめる。安全。分かりやすい。どちらも、今の自分からは遠い言葉だと分かっている。
カナは否定しなかった。「そんなことないよ」とも言わない。代わりに、少しだけ困ったように笑う。
「ねえ、ひより。かわいくなくなったら、戻りにくいよ」
忠告というほど強くない。でも、冗談でもない。経験則みたいな静けさで、その言葉は置かれた。ひよりは答えなかった。分かっていることを、わざわざ言葉にする必要はなかった。分かっているのに、やめられない。やめられないから、かわいくない。
かわいくない。だから、やめられない。
その事実を、ひよりは否定も肯定もせずに受け取った。諦めに近い感覚と一緒に。まだ決断ではない。でも、もう後戻りの場所には立っていない、という実感だけが胸の奥に残っていた。
カナは何も言わずにカフェラテを飲み干し、また別の話題を持ち出す。ゼミ、課題、共通の知り合い。ひよりに呼吸する隙間をくれる。その優しさが、少しだけ救いだった。
店を出るとき、カナが軽く肩を叩く。
「また連絡してね」
「うん」
別れてから、ひよりは一人で駅へ向かう。道がいつもより長く感じる。カナの言葉が、頭の中で何度も反響しているからだ。
かわいくなくなったら、戻りにくいよ。
重くなっても、止められない。止められないことが、もう答えだった。
ひよりはその答えを抱えたまま、改札を通った。
同じ大学の友人で、学部は違う。けれど、週に一度は顔を合わせる間柄だった。ひよりにとってカナは、数少ない「ちゃんと話せる相手」だった。何でも話せる、という意味ではない。話したくないことを、無理に聞いてこない相手。聞かれないことが、こんなにも楽だと教えてくれた存在だった。
カナは手元のスマホから顔を上げ、ひよりを見つけると軽く手を振った。
「遅くない?」
「ごめん、電車が」
「嘘でしょ」
カナは責める調子ではなく、分かっている嘘を楽しむみたいに言った。ひよりはそれに小さく笑って、向かいの席に腰を下ろす。椅子を引く音が、思ったより静かに響いた。
メニューを開いて、適当に飲み物を頼む。カナの前には、すでにカフェラテが置かれていた。白いカップの縁に、口紅がほんの少しだけ残っている。ひよりは紅茶を選んだ。注文を終えると、カナはスマホを伏せ、ようやくこちらに意識を向ける。
「で、どう? バイト」
「普通」
「普通って、つまんないやつ?」
「いや、普通に、普通」
言葉を重ねながら、ひよりは曖昧な位置に返事を置く。カナは少しだけ首を傾げて、ひよりの顔を見た。その視線に気づいて、ひよりは一瞬遅れて目を逸らす。逸らしたことで、カナは何かを察したみたいに、口元だけで笑った。
「なんか、あった?」
「何もない」
「嘘」
軽い言い方だった。軽いのに、逃げ道を残さない言葉だった。
ひよりは小さく息を吸って、吐く。時間を作るみたいに、背筋を伸ばす。
「……同じバイトの人と、仲良くなった」
「へえ」
カナは少し身を乗り出す。巻き髪が肩から滑り、指先でそれを耳にかけた。その仕草が自然で、ひよりは理由もなく目を奪われる。羨ましい、とまでは言えない。ただ、目に残る。
「どんな人?」
「……年下」
「年下! いいじゃん」
声が少し弾む。その弾みが、ひよりには眩しかった。
「深夜バイトで、ファミレス行ったりして」
「ファミレス! それ、かわいいじゃん」
カナは素直に笑った。その笑い方が本当に楽しそうで、ひよりは少しだけ救われる。救われながら、同時に胸の奥がきしむ。
「年下で、深夜バイトで、ファミレスってさ。普通にかわいくない?」
ひよりはそのとき、否定しなかった。否定する理由が見つからなかったというより、否定できるほど言葉が整っていなかった。
「かわいい恋じゃん。バイトで出会って、仲良くなったって。羨まし!おとと」
あ
安心している声音だった。ひよりを安全な場所に置こうとしている声だった。ひよりは運ばれてきた紅茶に口をつける。思ったより熱くて、少しだけ眉を寄せる。熱さに紛れて、間を稼ぐ。
「……ファミレスだけじゃ、ない」
カナの表情が一瞬だけ止まる。止まったまま、何も言わない。カップを持ち上げ、一口飲んでから、ゆっくりとテーブルに戻す。
「そっか」
それだけ言って、話題を変えた。天気、授業、どうでもいい近況。カナは空気を散らすのが上手だった。ひよりもそれに乗る。乗りながら、胸の奥に引っかかったものが消えない。
カナは深く聞かない。察しているのに、詮索しない。詮索しないことで、ひよりに逃げ道を残してくれている。その距離感が、ありがたくて、少しだけ寂しい。
しばらくして、カナが話を切った。切り方が自然すぎて、ひよりは遅れて身構える。
「……それで」
カナはすぐに続きを言わない。ひよりが何も言わないままでいるのを確かめてから、静かに問いを戻す。
「また、会ってるの?」
問いそのものは短い。責める調子でも、詮索する言い方でもない。けれど、その一語だけが、ひよりの中に不自然に残った。会っていること自体は、もう隠していない。バイト仲間で、顔を合わせている。それは最初に伝えている。説明は、すでに済んでいるはずだった。
それなのに、カナは「また」と言った。
続いていること。繰り返していること。そして、ひより自身がまだ言葉にしていない部分まで――その一語は、そこまでまとめて指してくる。事情ではなく、頻度でもなく、「状態」を見抜いている言い方だった。カナは知らないふりをしているだけで、何も知らないわけじゃない。そのことに、ひよりは遅れて気づく。
ひよりはカップを見つめたまま、動けなかった。視線を上げれば、その「また」を肯定してしまう気がした。否定も説明もできないまま、時間だけが一拍遅れる。
スプーンが縁に触れて、小さな音を立てる。その音だけが、ひよりの代わりに返事をしていた。
一度きりのつもりだったはずなのに。
いつの間にか、「一度きり」と言い聞かせる必要がなくなっていた。会うことが前提になっていた。
カナは何も言わない。ただ、ひよりを見る。その視線は責めていない。ただ心配している。そのことが、ひよりには少しだけ辛かった。
「無理してないなら、いいと思う」
それだけ言って、それ以上は踏み込まない。距離を保ったまま、ひよりの横に立つ。その立ち位置が、優しすぎる。
「……かわいくないよね」
ひよりは、誰に向けるでもなく呟いた。自分の中に落として確認するみたいな声だった。小さくて頼りない。でも、その言葉は、カナのいる位置まできちんと届いていた。かわいくない、と言ってしまった瞬間、ひよりの中で何かが静かに確定する。否定したいわけじゃない。ただ、否定できないことを、ようやく言葉にしただけだった。
「かわいい恋ってさ」
ひよりは、少しだけ間を置いてから口を開く。
「もっと安全で、もっと分かりやすいでしょ」
自分を責める響きはなく、正解を押しつける言い方でもない。ただ、世間一般の“かわいい”を、そのまま並べただけの声だった。ひよりはそのあと黙ってカップの縁を見つめる。安全。分かりやすい。どちらも、今の自分からは遠い言葉だと分かっている。
カナは否定しなかった。「そんなことないよ」とも言わない。代わりに、少しだけ困ったように笑う。
「ねえ、ひより。かわいくなくなったら、戻りにくいよ」
忠告というほど強くない。でも、冗談でもない。経験則みたいな静けさで、その言葉は置かれた。ひよりは答えなかった。分かっていることを、わざわざ言葉にする必要はなかった。分かっているのに、やめられない。やめられないから、かわいくない。
かわいくない。だから、やめられない。
その事実を、ひよりは否定も肯定もせずに受け取った。諦めに近い感覚と一緒に。まだ決断ではない。でも、もう後戻りの場所には立っていない、という実感だけが胸の奥に残っていた。
カナは何も言わずにカフェラテを飲み干し、また別の話題を持ち出す。ゼミ、課題、共通の知り合い。ひよりに呼吸する隙間をくれる。その優しさが、少しだけ救いだった。
店を出るとき、カナが軽く肩を叩く。
「また連絡してね」
「うん」
別れてから、ひよりは一人で駅へ向かう。道がいつもより長く感じる。カナの言葉が、頭の中で何度も反響しているからだ。
かわいくなくなったら、戻りにくいよ。
重くなっても、止められない。止められないことが、もう答えだった。
ひよりはその答えを抱えたまま、改札を通った。