同じ場所に立つまで、恋じゃなかった

第10話¦いつものつもり

 深夜のコンビニは、光だけが昼みたいに白くて、音は夜のまま小さい。冷蔵ケースのモーター音、レジの電子音、床を擦るモップの気配。すべてが一定で、一定だからこそ、そこにいる人間のテンポが目立つ。

 湊はもうこの時間帯に慣れきっていた。手順も、混むタイミングも、誰がどの棚を見落としやすいかも分かっている。やることがあるから立っていられるし、やることがある限り、余計なことを考えずに済む。

「ひより、これお願い」

 言いながら、手元でレジの補充を続ける。指示というより、流れの一部だった。ひよりは「はい」とだけ返して、無駄なく動く。返事が短いのは、いつからだろう。元からかもしれない。敬語が残っているかどうかも、最近は気にならなかった。

 少し前まで、ひよりは湊の近くに立っているだけで、どこか固かった。目が合うと遅れて逸らして、声も一拍遅れて返ってくる。その遅れが、今はほとんどない。ひよりが変わったわけじゃない。たぶん。変わったのは、湊のほうが慣れたからだ。そういうことにしている。

 棚出しの途中で、ひよりが先回りして台車を寄せる。湊が手を伸ばす前に、段ボールが開かれている。前は「大丈夫、俺やる」と言っていたところを、今は言わない。言わなくても、終わるからだ。

「助かる」

 湊が言うと、ひよりは一瞬だけ口元を緩めて、すぐに戻る。笑ったのかどうか分からないくらいの変化。それでも湊は、それを見てしまう。見てしまうことに、特別な意味は持たせない。意味を持たせないのが、湊の癖だった。

 レジの前で常連の男が煙草を選び、ひよりが淡々と対応する。手つきが落ち着いていて、指先が迷わない。もう新人と言うには早い。湊はぼんやりと、ひよりの背中を見た。

 ——ああ、ちゃんとしてる。

 評価でも特別扱いでもないはずなのに、どこかに引っかかる。引っかかる理由が分からないから、そのままにしておく。

「お疲れ」

 奥から環が出てきて、軽く声をかけた。湊は「お疲れっす」と返す。環は湊とひよりを見て、一瞬だけ目を細める。何か言いたそうな顔だった。

 環は落ち着いた声で話す人で、笑うときも控えめだ。怒鳴ることはないし、細かく指示も出さない。必要なことだけ言って、あとは任せる。

 湊は環の視線に気づかないふりをした。気づいても、何を察しているのか分からない。分からないことは、考えない。考えると、面倒なことになりそうな気がした。

 環がレジに立ち、湊は奥へ引っ込む。途中で、環が小さく言った。

「仲いいな」

 湊は足を止めそうになって、止めなかった。

「ひよりがいると、仕事が楽です」

 楽、という言葉が自然に出た。出たあとで、少しだけ違和感が残る。違和感の正体が分からないから、そのまま奥へ進む。

 休憩に入る。バックヤードの椅子は固く、蛍光灯の光も遠慮がない。おにぎりとカップスープ。夜の食事はいつもこんな感じで、それでいいと思っていた。

 湊はスマホを手に取って、ロックを解除し、何となく画面を眺めてから伏せた。通知がないわけじゃない。ただ、見なくても平気だった。前は休憩のたびに、無意識にスクロールしていた気がする。何を見ていたのかは、覚えていない。

 ひよりは紙コップのコーヒーを両手で持って、少しだけ冷ましている。飲み方が静かで、音がしない。湊はその横顔を視界の端で捉えながら、話題を探した。

「最近さ、寝れる?」

 ひよりは湊を見る。「はい」と言いそうな顔で、一拍置く。

「……まあ、普通に」

 普通に、という言葉がひよりから出ると、なぜか安心する。その理由は考えない。

「そっか」

 それだけで会話が終わりそうになり、湊はまた何か言おうとして、言うほどのことがないと気づく。バックヤードの空気は薄い。それでも落ち着く。落ち着くのが、少しだけ変だと思った。

「さっき、めっちゃ混みましたね」

 ひよりが言う。会話を続けたいのか、ただの感想なのか分からない言い方だった。

「うん、急に来たよな」
「金曜だからですかね」
「かもね」

 言葉だけを並べれば、ただのやり取りだった。混んだ理由を確認して、納得して、それで終わる。それ以上の意味はない。少なくとも、会話の上では。

 それでも、やり取りは途切れなかった。次の指示を出すでもなく、話題を変えるでもなく、間だけが自然に繋がっていく。続いていること自体に、違和感はなかった。違和感がない、という事実を、湊は特に意識しない。

 作業に戻る。夜は淡々と進む。入荷、揚げ物の仕込み、床の清掃、雑誌の返本。覚えた順番で、覚えた手つきで、体が勝手に動く。ひよりも同じだ。声を掛けなくても、視線を交わさなくても、次の動きが分かる。二人で、店が回っている。

 その様子を、環がときどき見ていた。長く見るわけじゃない。通りがかりに、少しだけ目を向ける程度だ。視線は静かで、評価も詮索も含まれていないように見える。ただ、確認しているだけみたいだった。

 湊はその視線に気づいている。気づいてはいるけれど、振り返らない。何を見られているのかを考えない。確かめたら、今の流れに名前がついてしまう気がした。名前がついたら、扱わなきゃいけなくなる。今は、それをしたくなかった。

 終盤、環がレジに立つ。湊が軽く言う。

「お疲れ」

「おう」

 それだけのやり取りだった。環は画面を見ながら作業を続けて、ふと顔を上げる。何か言いかけたように見えたが、結局、口は開かれなかった。言わないという選択が、そのまま置かれる。

 退勤の時間が近づく。外はまだ暗い。自動ドアが開くたび、夜の冷たい空気が一枚ずつ店内に混ざっていく。環は何も言わず、いつも通りの位置に立っている。

 ひよりがロッカーから荷物を出しながら、静かに言った。

「今日は、先に帰りますね」

 ひよりの言い方は、ただの報告だった。業務連絡みたいで、余計な温度がない。湊も「うん」と返すつもりだったのに、声が出る前に、頭の中で別の音が鳴った。

 ——あ、今日は来ないんだ。

 驚きでも失望でもない。そういう言葉が浮かぶ前の、ごく短い引っかかりだった。いつもなら並んで出る時間に、ひよりが一人分だけ先に進んでいく。その事実を、ただ受け取っただけなのに、胸のどこかがわずかにずれる。

「あ、うん。気をつけて」

 声は軽く出て、それ以上の言葉は続かなかった。ひよりが「お疲れさまでした」と言って、いつも通りに会釈する。夜の方へ溶けていく背中を、湊は少しだけ見送った。

 店の前に残った影が、一つになる。さっきまで二つだったことを、意識する必要はないはずなのに、湊は足元を見てしまう。

 別に、毎回一緒に帰るわけじゃない。別に、約束してたわけでもない。たまたま、2度続いただけだ。

 そう言い聞かせながら、湊はコンビニの明るさから離れた。離れたところで、奥から環の声がした。

 レジ裏で、環が釣銭の確認をしていた。
 湊は畳んだ段ボールを足元に寄せながら、売り場の様子を視界の端で見ている。ひよりは棚の前で手を動かしている。動線も、間の取り方も、もう見慣れたものだった。

 環が顔を上げないまま、ぽつりと言う。

「同世代がいると、夜も回しやすいな」

 評価でも、冗談でもない言い方だった。
 名前も出ない。ただ、状況をそのまま置いたみたいな声音。

 湊は一瞬だけ動きを止めて、それから段ボールを畳み続けた。

「……まあ、そうっすね」

 それ以上は何も言わない。
 環も続けない。レジ裏に、紙幣を揃える音だけが残る。

 ひよりは会話に入らない。
 入らないまま、棚を整えて、次の列へ移る。

 三人の距離は変わらない。
 店の流れも、夜のテンポも、いつも通りだった。

 ただ、湊の中にだけ、言葉が残った。
 考えるほどのものではない。聞き流すには、少しだけ輪郭があった。

 部屋に帰る。鍵を回して、靴を脱ぐ。いつもの動作なのに、音が少しだけ大きく感じる。テレビをつけると、バラエティの笑い声が流れ込んでくる。賑やかなはずなのに、部屋は妙に広い。

 画面を見ているつもりで、見ていない。スマホを手に取って、スクロールして、閉じる。何を見たかったのかは分からない。冷蔵庫を開けて、水を飲む。喉は渇いていない。それでも、もう一口飲む。

 ソファに座る。いつも座っている場所なのに、余白が目につく。誰かがいた痕跡があるわけじゃないのに、広さだけが残っている。

 布団に入って目を閉じる。浮かぶのは声じゃない。言葉でもない。ひよりの「はい」という短い返事と、紙コップを両手で持つときの指の形と、笑ったかどうか分からない口元。それだけが、切れ切れの映像みたいに繰り返される。

 ——変な夜だな。

 そう思って、理由は掘らない。掘ったら、名前のついていない感情に触れてしまいそうだった。触れたら、どう扱えばいいのか分からない。分からないものは、そのままにしておく。

 翌日。また深夜のシフト。

 コンビニの光は変わらない。空気も、音も、いつも通りだ。湊はレジに立ち、品出しをして、環と軽口を交わす。その流れの中に、ひよりが入ってくる。

「お疲れさまです」

 その瞬間、体のどこかが勝手に軽くなる。胸の奥というより、肩のあたりに乗っていたものが、気づかないうちに落ちたみたいな感覚だった。重かったわけじゃない。ただ、昨日の夜から残っていた違和感が、音もなく抜けていく。理由を探す前に、体の方が先に反応してしまった。

「お、やっほ」

 声が思ったより明るく出て、自分で少しだけ可笑しくなる。わざと軽くしたつもりはない。ただ、軽くなっていた。ひよりは名札を整えながら「はい」と短く返す。その返事が、昨日よりも近くで聞こえた気がして、湊はそれ以上何も言わなかった。

 作業が始まる。いつも通りの流れ。品出し、レジの補充、廃棄の確認。ひよりはすぐに動き出して、迷いがない。台車の位置、棚の前に立つタイミング、段ボールを開ける手つき。その一つ一つが、もう説明を要しないものになっていることに、湊は遅れて気づく。

 ——ああ、もう一緒にやるのが当たり前になってる。

 その事実に、驚きはない。ただ、そうなっていた、という確認に近い。

「昨日さ、静かすぎて」

 言葉が口から出た瞬間、余計だったと分かる。業務に関係ないし、言わなくていい。でも、一度出た言葉は戻らない。ひよりが一瞬だけ手を止めて、湊を見る。その視線は驚きというより、様子を測るみたいだった。

「……そうなんですか」

 敬語は崩れない。声のトーンも変わらない。それなのに、その一言を聞いた瞬間、湊の中で何かが落ち着く。理由は分からない。ただ、変に距離を取られていない、と感じた。

「まあ、別に、いつも通りなんだけどさ」

 言い訳みたいに付け足して、湊は段ボールを持ち上げる。動作に力を入れて、考える余地を潰す。声も、態度も、仕事中の自分に戻す。戻れる場所があることが、少しだけ助けになる。

 ひよりはそれ以上何も言わず、作業に戻る。湊も同じように戻る。二人の間に会話はない。でも、昨日よりレジ裏の空気が静かだ。静かというより、落ち着いている。落ち着いていることを「よかった」と思うほど、湊は自分に正直じゃない。でも、「何でもない」と切り捨てるには、ちゃんと意識してしまっている。

 退勤の時間が来る。ロッカー前で着替えて、同じタイミングで外に出る。夜の空気が一気に流れ込んでくる。

「今日は?」

 湊の問いは、行き先を聞いているわけじゃない。何を聞いているのか、自分でもはっきりしない。ただ、確認したかった。ひよりは少しだけ間を置いてから答える。

「……大丈夫です」

 その言葉で、何が大丈夫なのかも、もう分かる。今日は一緒に帰れる、という意味だと理解して、湊はそれ以上何も聞かなかった。聞かなくていいことを、もう覚えてしまっている。

 二人は並んで歩き出す。駅の方向が同じだから、自然にそうなる。歩幅が揃う。揃えようとしたわけじゃないのに、ずれない。並ぶことに、理由も違和感もない。

 前と同じつもりだった。昨日と、先週と、変わらない夜の延長だと思っていた。だから、疑わなかった。

 ひよりが来る夜が、もう「いつも」になっていることを。
 その「いつも」が、少しずつ別の形に変わり始めていることにも、湊はまだ名前をつけないまま、ひよりと並んで歩いていた。
< 12 / 17 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop