悪気がないかどうか、それを決めるのは私です
20.複雑な感情 sideウィリアム
side ウィリアム
ソフィアはその場に立ち尽くしたまま、ぼーっとしていた。いつもなら、俺が近づけばすぐに気づくのに、どうしたんだ?
そっと声をかけた。
「ソフィア、どうしたんだ? 顔が赤いぞ。熱でもあるのか?」
ソフィアは、はっとしたように振り返った。
「あ、ウィリアム……ううん、違うの」
そう言ったが、どこか落ち着かない。やっぱり何かおかしい。
「実はね、さっきフローリアのところへ行ってきたの。例の件で、私たちの手伝いをお願いできないかなあと思って」
「そうだったのか。言ってくれれば、一緒に行ったのに。それで……フローリアは、何て言ってた?」
その問いかけると、ソフィアの表情が目に見えて曇った。唇をきゅっと噛みしめ、ほんの一瞬、言葉を飲み込む間ができる。
「……断られちゃったの」
「断られた?」
ソフィアは小さくうなずいた。
「フローリアが、私たちを……助けないって。そんなふうに言われるなんて、思いもしなかったわ。私、悲しい」
「フローリアが? 本当に?」
驚きは隠しきれなかった。
フローリアは、これまでソフィアの頼みを無下にしたことなど一度もない。無理難題であっても、必ず応えてきたのに。
あのフローリアが、きっぱりと断った?
ソフィアの戸惑いは、きっと俺のそれ以上だろう。今まで断られたことがないのだから。
「そうなの。定時で帰っているらしいから、時間がないわけじゃないと思うのだけれど……困っているって、ちゃんと伝えたのよ。それなのに、フローリアが……同期としての絆を、あんなにもあっさり手放すなんて思わなかったわ。私、これまで仲良くやってきたつもりだったのに」
「全くだな」
思わず、口調が荒くなった。
「フローリアがいなくなって困っている俺たちを、眺めてるだけってことだろ。馬鹿にしてるんじゃないのか?」
「さすがに、それは……言い過ぎよ。あとね。フローリアの上司の方に相談したら、正式に室長を通すように言われて……」
――はぁ? おおげさな。
「室長、か……。厳しいかもしれないな。はぁ……これじゃ洗髪料の開発も進まないし、俺たちのプロジェクト自体、立ち行かなくなるかもしれない。最悪だ」
人手が足りないだけじゃない。これからどうすればいいんだ。
「ねえ、それよりウィリアム。第三騎士団の副団長のこと、知ってる?」
それより、だって?
思わず眉をひそめる。
「……エドモンド様のことか? もちろん知っているさ。平民の身で騎士団に入り、今では第三騎士団の副団長。しかも男爵位まで授けられた。あの人の功績は、誰もが認めている」
まさに平民の星。俺だって薬師として名を挙げて、いずれは貴族に、そう思わせてくれる存在、俺の憧れだ。
ソフィアはなぜか、目を輝かせて一言も挟まず、ただじっと話を聞いていた。
「そうなのね!」
ぱっと表情を明るくして、弾んだ声を上げる。
「エドモンド様、顔立ちがとても整っているの。それだけじゃなくて……鋭い眼差しと、どっしりした佇まいが印象的だったわ。強さもあるのに、どこか優しさを感じさせて……」
言葉を選びながらも、感情が先走っているのがはっきりわかる。
「ただの部下なのにフローリアを守る姿なんて、本当に素敵だったの。まるで童話に出てくる騎士様みたいで……」
――ああ、これは。
彼女の声には、隠そうとしても隠しきれない感情が混じっていた。ただの感想ではない。憧れという言葉では足りない。もしかして……。
胸の奥が、嫌な予感でざわつく。
「あの方に出会って、すべてが光って見えたの。一目ぼれって、本当にあるのね」
やっぱり……。
「副団長なら、これからもっと功績を立てる機会があるでしょう? 爵位が上がれば……身分の差もなくなって、私ときっと釣り合うはず……うわぁ……どうしよう」
――はぁ……。こんな時に勘弁してくれ。
◇
ソフィアは、明らかに研究をおろそかにするようになってしまった。手が空けば――いや、空いている時間など本当はないはずなのに、第3騎士団の練習場へ足を運び、エドモンド様の姿を探しているらしい。
開発の進捗は遅れがちで、資料も机に積まれたまま手つかずの積み重なっていく。
俺にできることは、内心でため息をつくことだけだった。
「……室長に叱られるのは、結局俺なんだけどな」
焦りと不安が広がっていく。
俺は平民として生まれ育ち、必死に勉強しながら学院へ通ってきた。特待生になり、周囲の貴族たちに引けを取らないよう、いや、それ以上に努力した。そうしないと、同じ場所に立つことすら許されなかったからだ。
宮廷薬師としての道が開けたのは、正直に言えば、幸運としか言いようがない。
貴賤を問わないという建前はあっても、実際に平民が宮廷薬師として迎えられることは、ここ何十年もなかったはずだ。
ソフィアの家の後ろ盾が、大きかったのも間違いないだろう。ソフィアと友達になれて本当によかった。きっとソフィアは、父親に口添えしてくれたに違いない。
『一人、辞めさせるらしい』
そんな噂を耳にしたとき、どうしようもなく焦った。なぜなら、この研究室で、平民は俺だけだからだ。
不安が頭をかすめた。このままいけば、間違いなくその一人は、俺だ――そんな恐怖が、毎日増していった。
部屋を見渡して考えた。俺より下……そうだ。やはり、俺の代わりに辞める人間はフローリアしかいない。自分がこの場所に居続けるためには、彼女を蹴落とすしかない。
フローリアが、その優秀さを認められ、独学で宮廷薬師として採用されたことは知っている。そうであれば、フローリアの評価を下げる必要がある。
だから俺は動いた。
フローリアが自分の仕事を円滑に回せなくなるよう、先輩たちにそれとなく働きかけ、業務を彼女に集中させた。忙殺されれば、判断は鈍るはずだ。どれほど優秀でも、ミスを犯す可能性は高まる。
さらに、共同研究の成果が出ても、フローリアには、その影すら踏ませないように誘導した。
後悔はしていない。
守ったこの居場所。これから成果を上げ、いずれは貴族に……。でも、フローリアの存在は大きかった。でも、それを口にしたら、いけないことはわかっている。
そんな中で聞いた、ソフィアが「元平民の騎士副団長」に恋をしたという話。エドモンド様に憧れ、目を輝かせるソフィアの姿は、俺が必死に押し殺してきた思いを刺激する。
ソフィアに見捨てられるかもしれないという恐れ。そして、ずっと前に諦めたはずの恋が残した、鈍い痛み。届かないと諦めた相手が恋をした元平民のエドモンド様への嫉妬。
このままだと、俺は、誰にも気づかれないまま、孤立していくのではないのだろうか。
ソフィアはその場に立ち尽くしたまま、ぼーっとしていた。いつもなら、俺が近づけばすぐに気づくのに、どうしたんだ?
そっと声をかけた。
「ソフィア、どうしたんだ? 顔が赤いぞ。熱でもあるのか?」
ソフィアは、はっとしたように振り返った。
「あ、ウィリアム……ううん、違うの」
そう言ったが、どこか落ち着かない。やっぱり何かおかしい。
「実はね、さっきフローリアのところへ行ってきたの。例の件で、私たちの手伝いをお願いできないかなあと思って」
「そうだったのか。言ってくれれば、一緒に行ったのに。それで……フローリアは、何て言ってた?」
その問いかけると、ソフィアの表情が目に見えて曇った。唇をきゅっと噛みしめ、ほんの一瞬、言葉を飲み込む間ができる。
「……断られちゃったの」
「断られた?」
ソフィアは小さくうなずいた。
「フローリアが、私たちを……助けないって。そんなふうに言われるなんて、思いもしなかったわ。私、悲しい」
「フローリアが? 本当に?」
驚きは隠しきれなかった。
フローリアは、これまでソフィアの頼みを無下にしたことなど一度もない。無理難題であっても、必ず応えてきたのに。
あのフローリアが、きっぱりと断った?
ソフィアの戸惑いは、きっと俺のそれ以上だろう。今まで断られたことがないのだから。
「そうなの。定時で帰っているらしいから、時間がないわけじゃないと思うのだけれど……困っているって、ちゃんと伝えたのよ。それなのに、フローリアが……同期としての絆を、あんなにもあっさり手放すなんて思わなかったわ。私、これまで仲良くやってきたつもりだったのに」
「全くだな」
思わず、口調が荒くなった。
「フローリアがいなくなって困っている俺たちを、眺めてるだけってことだろ。馬鹿にしてるんじゃないのか?」
「さすがに、それは……言い過ぎよ。あとね。フローリアの上司の方に相談したら、正式に室長を通すように言われて……」
――はぁ? おおげさな。
「室長、か……。厳しいかもしれないな。はぁ……これじゃ洗髪料の開発も進まないし、俺たちのプロジェクト自体、立ち行かなくなるかもしれない。最悪だ」
人手が足りないだけじゃない。これからどうすればいいんだ。
「ねえ、それよりウィリアム。第三騎士団の副団長のこと、知ってる?」
それより、だって?
思わず眉をひそめる。
「……エドモンド様のことか? もちろん知っているさ。平民の身で騎士団に入り、今では第三騎士団の副団長。しかも男爵位まで授けられた。あの人の功績は、誰もが認めている」
まさに平民の星。俺だって薬師として名を挙げて、いずれは貴族に、そう思わせてくれる存在、俺の憧れだ。
ソフィアはなぜか、目を輝かせて一言も挟まず、ただじっと話を聞いていた。
「そうなのね!」
ぱっと表情を明るくして、弾んだ声を上げる。
「エドモンド様、顔立ちがとても整っているの。それだけじゃなくて……鋭い眼差しと、どっしりした佇まいが印象的だったわ。強さもあるのに、どこか優しさを感じさせて……」
言葉を選びながらも、感情が先走っているのがはっきりわかる。
「ただの部下なのにフローリアを守る姿なんて、本当に素敵だったの。まるで童話に出てくる騎士様みたいで……」
――ああ、これは。
彼女の声には、隠そうとしても隠しきれない感情が混じっていた。ただの感想ではない。憧れという言葉では足りない。もしかして……。
胸の奥が、嫌な予感でざわつく。
「あの方に出会って、すべてが光って見えたの。一目ぼれって、本当にあるのね」
やっぱり……。
「副団長なら、これからもっと功績を立てる機会があるでしょう? 爵位が上がれば……身分の差もなくなって、私ときっと釣り合うはず……うわぁ……どうしよう」
――はぁ……。こんな時に勘弁してくれ。
◇
ソフィアは、明らかに研究をおろそかにするようになってしまった。手が空けば――いや、空いている時間など本当はないはずなのに、第3騎士団の練習場へ足を運び、エドモンド様の姿を探しているらしい。
開発の進捗は遅れがちで、資料も机に積まれたまま手つかずの積み重なっていく。
俺にできることは、内心でため息をつくことだけだった。
「……室長に叱られるのは、結局俺なんだけどな」
焦りと不安が広がっていく。
俺は平民として生まれ育ち、必死に勉強しながら学院へ通ってきた。特待生になり、周囲の貴族たちに引けを取らないよう、いや、それ以上に努力した。そうしないと、同じ場所に立つことすら許されなかったからだ。
宮廷薬師としての道が開けたのは、正直に言えば、幸運としか言いようがない。
貴賤を問わないという建前はあっても、実際に平民が宮廷薬師として迎えられることは、ここ何十年もなかったはずだ。
ソフィアの家の後ろ盾が、大きかったのも間違いないだろう。ソフィアと友達になれて本当によかった。きっとソフィアは、父親に口添えしてくれたに違いない。
『一人、辞めさせるらしい』
そんな噂を耳にしたとき、どうしようもなく焦った。なぜなら、この研究室で、平民は俺だけだからだ。
不安が頭をかすめた。このままいけば、間違いなくその一人は、俺だ――そんな恐怖が、毎日増していった。
部屋を見渡して考えた。俺より下……そうだ。やはり、俺の代わりに辞める人間はフローリアしかいない。自分がこの場所に居続けるためには、彼女を蹴落とすしかない。
フローリアが、その優秀さを認められ、独学で宮廷薬師として採用されたことは知っている。そうであれば、フローリアの評価を下げる必要がある。
だから俺は動いた。
フローリアが自分の仕事を円滑に回せなくなるよう、先輩たちにそれとなく働きかけ、業務を彼女に集中させた。忙殺されれば、判断は鈍るはずだ。どれほど優秀でも、ミスを犯す可能性は高まる。
さらに、共同研究の成果が出ても、フローリアには、その影すら踏ませないように誘導した。
後悔はしていない。
守ったこの居場所。これから成果を上げ、いずれは貴族に……。でも、フローリアの存在は大きかった。でも、それを口にしたら、いけないことはわかっている。
そんな中で聞いた、ソフィアが「元平民の騎士副団長」に恋をしたという話。エドモンド様に憧れ、目を輝かせるソフィアの姿は、俺が必死に押し殺してきた思いを刺激する。
ソフィアに見捨てられるかもしれないという恐れ。そして、ずっと前に諦めたはずの恋が残した、鈍い痛み。届かないと諦めた相手が恋をした元平民のエドモンド様への嫉妬。
このままだと、俺は、誰にも気づかれないまま、孤立していくのではないのだろうか。