悪気がないかどうか、それを決めるのは私です
6.元宮廷薬師です
次の日の昼、私は寮を後にした。
思っていた以上に、片づけには時間がかかった。疲労と落ち込みが重なり、荷物をまとめる手が何度も止まってしまったからだ。
外に出ると、眩しいほどの陽射しが降り注いでいた。空は高く澄み渡り、何事もなかったかのように穏やかだ。
それが、今の自分の心とあまりにもかけ離れていて、少しだけ息が詰まった。
「……今から実家に帰るには、時間が足りないわね」
ぽつりと呟き、足を止める。
領地までは馬車でおよそ四時間。この時間から出発しても、夕刻までには辿り着けないだろう。
無理をするより、今日は途中で宿を取った方がいい。
そう頭では判断しているのに、気持ちはなかなか前を向いてくれなかった。
「……王宮も、これで見納めか」
思わず、振り返る。
これまでの私は、忙しさに追われるばかりで、王宮の中をゆっくり歩く余裕などなかった。今さらになって、もっといろいろ見ておけばよかった、そんな後悔が胸の奥に広がっていく。
もう、二度とここへ戻ることはない。
そう思うと、足が自然と庭園の方へ向かっていた。
色とりどりの花が咲き誇り、手入れの行き届いた庭園は、美しい。その中を歩きながら、私は必死に気持ちを整えようとしていた。
これからの生活のこと。
失った職場のこと。
そして、先の見えない将来への不安。
考えないようにしても、次から次へと頭に浮かんでくる。
花の香りに包まれながら、私は、ただ静かに、自分の行く先を探していた。どこかに空いたままの心の隙間を埋めたくて、私は、目に映るものすべてを逃すまいとするように、ゆっくりと周囲を見渡していた。
花の色、噴水の水音、石畳の感触。
しばらく歩いていると、庭園の中央にある噴水のそばで、ふと視線を引くものがあった。
あら? 人だわ。
ベンチに腰掛けた男性が、片手で腹部を押さえ、顔を歪めている。苦しそうに肩で息をし、今にも倒れそうな様子だった。
「……どうしよう」
足が止まる。
声をかけるべきか、それとも見なかったことにして通り過ぎるべきか。一瞬、迷いがよぎる。けれど、視線を落とした拍子に、鞄の中の重みを思い出した。自分で調合した、いくつかのポーション。
もし、薬師の手が必要なら。
「よし」
小さく息を吸い、私は意を決した。慎重に距離を詰め、できるだけ驚かせないように、控えめな声で呼びかける。
「あ、あの……」
男性は、はっとしたように顔を上げた。その表情には、突然声をかけられたことへの驚きと、わずかな警戒心が浮かんでいる。
強面ではあるが、整った顔立ち。しかし、その肌は血の気を失い、唇もわずかに青い。額にはうっすらと汗が滲み、明らかに、痛みを必死にこらえている様子だった。
――放っておいていい状態じゃない。
そう、薬師としての感覚が、はっきりと告げていた。
「具合でも悪いのですか?」
そう尋ねると、男性は一瞬だけ言葉に詰まったように視線を逸らし、やがて深く息を吐いた。
「ああ……恥ずかしい話だが、胃が痛くてな」
自分でも情けない、と言いたげに苦笑する。
「実は、第三騎士団で副団長をしている。今日は団長の代わりに会合へ出たのだが……どうにも性に合わなくてな。もともと平民だ。貴族たちの、あの回りくどくて嫌味臭い言い方に、正直、殴りたい衝動を必死で抑えていた」
腹部を押さえる指に、力がこもる。
「その結果がこれだ。……はは、こんな体格で胃痛なんて、笑えるだろう?」
言葉とは裏腹に、声にはわずかな自嘲と疲労が滲んでいた。
「そんなことはありません」
私は、はっきりと首を横に振った。
「体の不調に、体格は関係ありません。今のお話を聞く限り、典型的なストレス性の胃痛ですね」
そう断言すると、鞄に手を伸ばす。
「それでしたら、こちらを」
取り出したポーションを、そっと差し出した。
「……これは?」
「私が調合したポーションです。胃の粘膜を保護して、痛みを和らげる効果があります。よろしければ、お飲みください」
男性は目を見開き、手の中の小瓶と私の顔を、交互に見比べた。
「君が……作った、だと?」
驚きに満ちたその視線を、私は静かに受け止めていた。
「いいのか? ポーションなど、高価なものだろうに」
遠慮がちにそう言われ、私は小さく首を振った。
「構いません。ポーションは、必要な人に飲んでもらうために存在しているものですから。これは痛みによく効く調合なので、きっとお役に立つと思います」
「……そうか。では、遠慮なく」
男性は瓶を受け取り、ためらいなく一気に飲み干した。
飲み終えたあと、彼はしばらく無言のまま目を閉じていた。噴水の水音だけが、二人の間に流れる。
やがて、ゆっくりと目を開き、驚いたように息を吐いた。
「……君は、宮廷薬師なのか?」
「ええ。ただし.
元、ですが」
私は視線を落とし、淡々と続ける。
「昨日、人員削減ということで……解雇されました」
「そうか……それは、辛かっただろうな」
一瞬、言葉を選ぶように間を置いた彼は、次の瞬間、はっとしたように腹部に手を当てた。
「ん? おお!」
目を見開き、何度か確かめるように息を吸う。
「胃の痛みが、嘘みたいに消えていく……すごいな。こんなポーションを作れるのに、首になったのか?」
「いえ……」
褒め言葉に、思わず曖昧な笑みがこぼれる。
「品質自体は、評価していただけることが多かったのですが……調合の速さが、まだ足りなくて。修行不足だと」
「なるほど……」
男性は腕を組み、少し考え込むような表情を見せたあと、こちらをまっすぐに見た。
「それで、これからの身の振り方は考えているのか?」
その眼差しは、先ほどまでの苦痛や冗談めいた調子とは違い、真剣そのものだった。
「ええ……なんとなくは。でも……」
言葉を探すように、視線を落とす。
「突然、目的を失ってしまって……気力が湧かないんです。これから何をしたいのか、どうしていけばいいのか……自分でも、わからなくて……」
口に出した途端、胸の奥に押し込めていた感情が一気に溢れ出した。視界が滲み、涙が頬を伝う。
――昨日、あれほど泣いたはずなのに。
「っ……! ああ、すまない。泣かせるつもりはなかったんだ」
明らかに動揺した様子で声を上げた。
「そうだよな……急な話だったのだろう? 宮廷薬師の採用は狭き門だと聞く。そんな状況で、すぐに身の振り方まで考えろというのは……配慮が足りなかった。すまん」
そう言って、彼は慌ててハンカチを差し出し、そして、ためらいがちに私の頭を撫でてくれた。不器用ながらも伝わってくる気遣いに、張りつめていた心が、ほんの少しだけ緩むのを感じた。
「いいえ。ありがとうございます」
ハンカチを受け取り、涙を拭ってから、静かに言葉を続ける。
「とりあえず今日は宿を探して……また、明日考えようと思います」
「宿も、まだ決まっていないのか?」
一瞬、驚いたように目を見開いたあと、彼は思い出したように姿勢を正した。
「失礼。自己紹介がまだだったな。私は第三騎士団の副団長、エドモンド・レイヴンウッドだ」
噴水の前で、騎士らしくきちんと一礼する。
「もとは平民だが、功績を立てて男爵位を賜った。……ただ、このレイヴンウッドという姓がどうにも馴染まなくてな。よければ、エドモンドと呼んでくれ」
「エドモンド様、ですね」
私も慌ててスカートの裾を摘み、軽く礼をする。
「私はグリムハルト子爵家の三女、フローリアと申します。宮廷薬師は平民の方も多く、皆、名前で呼び合っておりましたので……どうか、私のこともフローリアとお呼びください」
「そうか。では、フローリア」
正面から彼を見つめ、改めてその姿に息を呑んだ。
おそらく二十代後半、その年齢で副団長の地位にあるという事実が、彼の実力を雄弁に物語っていた。
「実はな。一つ、提案があるのだが……」
エドモンド様は、少しだけ言葉を選ぶように間を置いてから、私をまっすぐに見た。
「提案、ですか?」
「ああ。もし君がよければ、第三騎士団で、働いてみないか?」
第三騎士団で、働く……?
思いもよらない言葉に、私は思わず息を止めた。
思っていた以上に、片づけには時間がかかった。疲労と落ち込みが重なり、荷物をまとめる手が何度も止まってしまったからだ。
外に出ると、眩しいほどの陽射しが降り注いでいた。空は高く澄み渡り、何事もなかったかのように穏やかだ。
それが、今の自分の心とあまりにもかけ離れていて、少しだけ息が詰まった。
「……今から実家に帰るには、時間が足りないわね」
ぽつりと呟き、足を止める。
領地までは馬車でおよそ四時間。この時間から出発しても、夕刻までには辿り着けないだろう。
無理をするより、今日は途中で宿を取った方がいい。
そう頭では判断しているのに、気持ちはなかなか前を向いてくれなかった。
「……王宮も、これで見納めか」
思わず、振り返る。
これまでの私は、忙しさに追われるばかりで、王宮の中をゆっくり歩く余裕などなかった。今さらになって、もっといろいろ見ておけばよかった、そんな後悔が胸の奥に広がっていく。
もう、二度とここへ戻ることはない。
そう思うと、足が自然と庭園の方へ向かっていた。
色とりどりの花が咲き誇り、手入れの行き届いた庭園は、美しい。その中を歩きながら、私は必死に気持ちを整えようとしていた。
これからの生活のこと。
失った職場のこと。
そして、先の見えない将来への不安。
考えないようにしても、次から次へと頭に浮かんでくる。
花の香りに包まれながら、私は、ただ静かに、自分の行く先を探していた。どこかに空いたままの心の隙間を埋めたくて、私は、目に映るものすべてを逃すまいとするように、ゆっくりと周囲を見渡していた。
花の色、噴水の水音、石畳の感触。
しばらく歩いていると、庭園の中央にある噴水のそばで、ふと視線を引くものがあった。
あら? 人だわ。
ベンチに腰掛けた男性が、片手で腹部を押さえ、顔を歪めている。苦しそうに肩で息をし、今にも倒れそうな様子だった。
「……どうしよう」
足が止まる。
声をかけるべきか、それとも見なかったことにして通り過ぎるべきか。一瞬、迷いがよぎる。けれど、視線を落とした拍子に、鞄の中の重みを思い出した。自分で調合した、いくつかのポーション。
もし、薬師の手が必要なら。
「よし」
小さく息を吸い、私は意を決した。慎重に距離を詰め、できるだけ驚かせないように、控えめな声で呼びかける。
「あ、あの……」
男性は、はっとしたように顔を上げた。その表情には、突然声をかけられたことへの驚きと、わずかな警戒心が浮かんでいる。
強面ではあるが、整った顔立ち。しかし、その肌は血の気を失い、唇もわずかに青い。額にはうっすらと汗が滲み、明らかに、痛みを必死にこらえている様子だった。
――放っておいていい状態じゃない。
そう、薬師としての感覚が、はっきりと告げていた。
「具合でも悪いのですか?」
そう尋ねると、男性は一瞬だけ言葉に詰まったように視線を逸らし、やがて深く息を吐いた。
「ああ……恥ずかしい話だが、胃が痛くてな」
自分でも情けない、と言いたげに苦笑する。
「実は、第三騎士団で副団長をしている。今日は団長の代わりに会合へ出たのだが……どうにも性に合わなくてな。もともと平民だ。貴族たちの、あの回りくどくて嫌味臭い言い方に、正直、殴りたい衝動を必死で抑えていた」
腹部を押さえる指に、力がこもる。
「その結果がこれだ。……はは、こんな体格で胃痛なんて、笑えるだろう?」
言葉とは裏腹に、声にはわずかな自嘲と疲労が滲んでいた。
「そんなことはありません」
私は、はっきりと首を横に振った。
「体の不調に、体格は関係ありません。今のお話を聞く限り、典型的なストレス性の胃痛ですね」
そう断言すると、鞄に手を伸ばす。
「それでしたら、こちらを」
取り出したポーションを、そっと差し出した。
「……これは?」
「私が調合したポーションです。胃の粘膜を保護して、痛みを和らげる効果があります。よろしければ、お飲みください」
男性は目を見開き、手の中の小瓶と私の顔を、交互に見比べた。
「君が……作った、だと?」
驚きに満ちたその視線を、私は静かに受け止めていた。
「いいのか? ポーションなど、高価なものだろうに」
遠慮がちにそう言われ、私は小さく首を振った。
「構いません。ポーションは、必要な人に飲んでもらうために存在しているものですから。これは痛みによく効く調合なので、きっとお役に立つと思います」
「……そうか。では、遠慮なく」
男性は瓶を受け取り、ためらいなく一気に飲み干した。
飲み終えたあと、彼はしばらく無言のまま目を閉じていた。噴水の水音だけが、二人の間に流れる。
やがて、ゆっくりと目を開き、驚いたように息を吐いた。
「……君は、宮廷薬師なのか?」
「ええ。ただし.
元、ですが」
私は視線を落とし、淡々と続ける。
「昨日、人員削減ということで……解雇されました」
「そうか……それは、辛かっただろうな」
一瞬、言葉を選ぶように間を置いた彼は、次の瞬間、はっとしたように腹部に手を当てた。
「ん? おお!」
目を見開き、何度か確かめるように息を吸う。
「胃の痛みが、嘘みたいに消えていく……すごいな。こんなポーションを作れるのに、首になったのか?」
「いえ……」
褒め言葉に、思わず曖昧な笑みがこぼれる。
「品質自体は、評価していただけることが多かったのですが……調合の速さが、まだ足りなくて。修行不足だと」
「なるほど……」
男性は腕を組み、少し考え込むような表情を見せたあと、こちらをまっすぐに見た。
「それで、これからの身の振り方は考えているのか?」
その眼差しは、先ほどまでの苦痛や冗談めいた調子とは違い、真剣そのものだった。
「ええ……なんとなくは。でも……」
言葉を探すように、視線を落とす。
「突然、目的を失ってしまって……気力が湧かないんです。これから何をしたいのか、どうしていけばいいのか……自分でも、わからなくて……」
口に出した途端、胸の奥に押し込めていた感情が一気に溢れ出した。視界が滲み、涙が頬を伝う。
――昨日、あれほど泣いたはずなのに。
「っ……! ああ、すまない。泣かせるつもりはなかったんだ」
明らかに動揺した様子で声を上げた。
「そうだよな……急な話だったのだろう? 宮廷薬師の採用は狭き門だと聞く。そんな状況で、すぐに身の振り方まで考えろというのは……配慮が足りなかった。すまん」
そう言って、彼は慌ててハンカチを差し出し、そして、ためらいがちに私の頭を撫でてくれた。不器用ながらも伝わってくる気遣いに、張りつめていた心が、ほんの少しだけ緩むのを感じた。
「いいえ。ありがとうございます」
ハンカチを受け取り、涙を拭ってから、静かに言葉を続ける。
「とりあえず今日は宿を探して……また、明日考えようと思います」
「宿も、まだ決まっていないのか?」
一瞬、驚いたように目を見開いたあと、彼は思い出したように姿勢を正した。
「失礼。自己紹介がまだだったな。私は第三騎士団の副団長、エドモンド・レイヴンウッドだ」
噴水の前で、騎士らしくきちんと一礼する。
「もとは平民だが、功績を立てて男爵位を賜った。……ただ、このレイヴンウッドという姓がどうにも馴染まなくてな。よければ、エドモンドと呼んでくれ」
「エドモンド様、ですね」
私も慌ててスカートの裾を摘み、軽く礼をする。
「私はグリムハルト子爵家の三女、フローリアと申します。宮廷薬師は平民の方も多く、皆、名前で呼び合っておりましたので……どうか、私のこともフローリアとお呼びください」
「そうか。では、フローリア」
正面から彼を見つめ、改めてその姿に息を呑んだ。
おそらく二十代後半、その年齢で副団長の地位にあるという事実が、彼の実力を雄弁に物語っていた。
「実はな。一つ、提案があるのだが……」
エドモンド様は、少しだけ言葉を選ぶように間を置いてから、私をまっすぐに見た。
「提案、ですか?」
「ああ。もし君がよければ、第三騎士団で、働いてみないか?」
第三騎士団で、働く……?
思いもよらない言葉に、私は思わず息を止めた。