Room
(第一章)
 目を覚ましたとき、何時なのか分からなかった。
 夜が終わったのか。途中で途切れたのか。
 その区別が、つかない。
 夢を見ていた気もする。
 だが、内容は残っていなかった。
 眠りが浅かったという感触だけが、身体に残っている。
 枕元に手を伸ばし、スマートフォンに触れる。
 画面が点く。
 光が、いつもより強く感じられた。
 時刻は早い。
 目覚ましは、まだ鳴っていない。
 指が滑り、ヘルスケアの画面が開く。
 昨日の歩数。
 はっと目を覚まし、布団を掛けたままベッドの縁に腰を落とした。
 数字を見た瞬間、胃の奥が縮んだ。
 もう一度、桁を確かめる。
 平日の平均を、明らかに超えている。
 通勤と買い物を合わせても、届かない数だった。
 画面を伏せる。
 再び見る。
 数字は変わらない。
 その下に、移動の記録が表示されている。
 細い線が、地図の上をなぞっていた。
 見覚えのない場所だ。
 駅名が違う。
 道の形が、記憶と合わない。
 拡大する。
 縮小する。
 もう一度、拡大する。
 息を止めていたことに気づき、慌てて吸い込む。
 胸の奥が、少し痛んだ。
 昨夜のことを思い出そうとする。
 帰宅した。
 バッグを置いた。
 服を脱いだ。
 そこから先が、ない。
 抜け落ちている。
 布団を出て、玄関へ行く。
 鍵は閉まっている。
 靴も、昨日のままだ。
 それでも、胸の内側が落ち着かなかった。
 洗面所の照明を点ける。
 鏡を見た瞬間、視線が止まる。
 端の方に、跡がある。
 水滴かと思った。
 だが、形が残っていた。
 指の跡のように見える。
 五本分ある気もする。
 自分の肩より、少し高い位置だった。
 一歩、近づく。
 輪郭が、はっきりする。
 その瞬間、歩数の数字が頭をよぎった。
 蛇口をひねり、水をかける。
 跡は流れ落ち、すぐに消えた。
 消えた。
 残らなかった。
 ただの汚れだったのだと思う。
 そう言い聞かせる。
 顔を洗う。
 冷たい水が、皮膚に広がる。
 それでも、何度も同じ場所を見てしまう。
 何も映っていない鏡の端。
 そこに、何かがあったという感触だけが、残っていた。
 キッチンへ行く。
 冷蔵庫を開ける。
 卵。
 野菜。
 ペットボトル。
 ビール缶。
 変わりはない。
 ただ、缶の位置が違っていた。
 右奥に並べていたはずのものが、左へ寄っている。
 一本だけ、角度がずれている。
 本数は、減っていない。
 扉を閉める。
 もう一度、開ける。
 変わらない。
 最初から、こうだったのか。
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