Room
(第二章)
身支度をして、仕事に向かう。
何も、確かめずに。
鍵を閉める。
ノブを回す。
もう一度、回す。
金属の感触が指先に残るまで確かめてから、背を向けた。
駅までの道を、ほとんど覚えていない。
信号を渡った記憶も、人とすれ違った感触もない。
気づくと、改札の前に立っていた。
会社の建物は、少し遠くにあるように見えた。
エレベーターに乗り、フロアを歩く。
いつもと同じ床。
それなのに、身体だけが、わずかに遅れて動いている。
席に着き、パソコンを立ち上げる。
起動音が、大きく響いた。
メールを読み、返事を書く。
数字を打ち込み、表を整える。
手は止まらない。
その間、頭の奥で、冷蔵庫の低い音が続いていた。
場所が違う一本の缶。
画面を見る。
一行読み、もう一度、同じ行を見る。
文字が、うまく定着しない。
午前中の会議。
資料をめくる。
自分の順番が来る。
声は、いつも通りに出ていた。
周囲の反応も、変わらない。
異常はない。
そのことが、気にかかった。
昼前、引き出しを開ける。
ペンを取ろうとして、手が止まる。
位置が違っていた。
右側にまとめていたペンが、少し散らかっている。
消しゴムは奥に押し込まれ、クリップの箱が手前にある。
ほんの少しの違いだ。
説明できないほどではない。
共有の引き出しでもない。
触ったのは、自分だと考える。
だが、その自分が、いつの自分なのか分からなかった。
昼休み。
食欲はない。
それでも、何かを口に入れないと、身体が持たない気がした。
スマートフォンを見る。
無意識に歩数の画面を開きかけ、閉じる。
見なければ、増えない。
そう思う。
午後、時間の感覚が曖昧になる。
時計を見るたび、思っていたより進んでいない。
仕事が終わる。
ミスはない。
叱責もない。
それでも、胸の奥に、重さだけが残った。
会社を出ると、足が自然と速くなる。
理由は分からない。
立ち止まりたくなかった。
電車に乗る。
吊り革につかまる。
指先が、少し冷たい。
バッグを膝に置き、ファスナーを開ける。
中身を確かめるつもりはなかった。
だが、指に紙の感触が触れる。
引き抜く。
レシートだった。
白く、細長い。
折り目が、はっきり残っている。
店名を見る。
見覚えがない。
金額は高くない。
内容も、現実的だ。
だから、否定できなかった。
財布を開く。
現金は減っていない。
カードも揃っている。
スマートフォンで、決済履歴を確認する。
履歴は、ない。
それでも、レシートは、ここにある。
バッグの中に。
自分の持ち物のあいだに。
朝から積み重なってきた違和感が、
ひとつの形を取り始める。
歩数。
移動の記録。
鏡。
冷蔵庫。
引き出し。
そして、この紙切れ。
レシートを握る。
紙の感触が、確かにそこにあった。
とにかく、帰らなければならない。
理由は分からない。
それが、使命を帯びた。
何も、確かめずに。
鍵を閉める。
ノブを回す。
もう一度、回す。
金属の感触が指先に残るまで確かめてから、背を向けた。
駅までの道を、ほとんど覚えていない。
信号を渡った記憶も、人とすれ違った感触もない。
気づくと、改札の前に立っていた。
会社の建物は、少し遠くにあるように見えた。
エレベーターに乗り、フロアを歩く。
いつもと同じ床。
それなのに、身体だけが、わずかに遅れて動いている。
席に着き、パソコンを立ち上げる。
起動音が、大きく響いた。
メールを読み、返事を書く。
数字を打ち込み、表を整える。
手は止まらない。
その間、頭の奥で、冷蔵庫の低い音が続いていた。
場所が違う一本の缶。
画面を見る。
一行読み、もう一度、同じ行を見る。
文字が、うまく定着しない。
午前中の会議。
資料をめくる。
自分の順番が来る。
声は、いつも通りに出ていた。
周囲の反応も、変わらない。
異常はない。
そのことが、気にかかった。
昼前、引き出しを開ける。
ペンを取ろうとして、手が止まる。
位置が違っていた。
右側にまとめていたペンが、少し散らかっている。
消しゴムは奥に押し込まれ、クリップの箱が手前にある。
ほんの少しの違いだ。
説明できないほどではない。
共有の引き出しでもない。
触ったのは、自分だと考える。
だが、その自分が、いつの自分なのか分からなかった。
昼休み。
食欲はない。
それでも、何かを口に入れないと、身体が持たない気がした。
スマートフォンを見る。
無意識に歩数の画面を開きかけ、閉じる。
見なければ、増えない。
そう思う。
午後、時間の感覚が曖昧になる。
時計を見るたび、思っていたより進んでいない。
仕事が終わる。
ミスはない。
叱責もない。
それでも、胸の奥に、重さだけが残った。
会社を出ると、足が自然と速くなる。
理由は分からない。
立ち止まりたくなかった。
電車に乗る。
吊り革につかまる。
指先が、少し冷たい。
バッグを膝に置き、ファスナーを開ける。
中身を確かめるつもりはなかった。
だが、指に紙の感触が触れる。
引き抜く。
レシートだった。
白く、細長い。
折り目が、はっきり残っている。
店名を見る。
見覚えがない。
金額は高くない。
内容も、現実的だ。
だから、否定できなかった。
財布を開く。
現金は減っていない。
カードも揃っている。
スマートフォンで、決済履歴を確認する。
履歴は、ない。
それでも、レシートは、ここにある。
バッグの中に。
自分の持ち物のあいだに。
朝から積み重なってきた違和感が、
ひとつの形を取り始める。
歩数。
移動の記録。
鏡。
冷蔵庫。
引き出し。
そして、この紙切れ。
レシートを握る。
紙の感触が、確かにそこにあった。
とにかく、帰らなければならない。
理由は分からない。
それが、使命を帯びた。