役目を終えたはずの巫女でした―――選ばれなかった時間の続き

第90章 選んだ未来へ――別れと再会の夜

日曜日の夜。
凜の部屋に移された鏡の前に、桜は立っていた。

隣には凜。
その周りには、母の祐子、姉の椿、そして凜の母の華子がいる。

今日、再召喚されなければ。
もう、二度と――向こうの世界へ行くことはできない。

ギリギリの時間まで家族のもとで過ごせて、長年勤めた職場にも、かなり心苦しかったが別れを告げることができた。
昨日は、久しぶりに三人で同じ部屋に寝た。

取り留めのない話をたくさんして、それがとても心地よかった。

だからこそ。
自由に会えなくなるという事実が胸に詰まって、今、何を言葉にすればいいのか分からなかった。

そんな桜の背中を、祐子が優しく叩いた。

「この1か月、何度も言ったけどね」

穏やかな声だった。

「結婚したら、そこで終わりじゃないのよ」

桜は顔を上げる。

「桜の場合、それが異世界なんだから。本当に大変よ」

少しだけ、間を置いて。

「でも、自分で選んだ相手なんだから。きっちり頑張ってきなさい」

背中を、もう一度ぽん、と叩かれる。

「……うん、がんば……る……」

言い切る前に、声が震える。
視界が滲み、結局、涙をこらえきれなかった。

そんな様子を見て、椿が呆れたように息をついた。

「あんたね。一生の別れじゃないんだから」

少しだけ肩をすくめる。

「また1年後会えるんでしょ。ちょっと大げさ」

そう言いながらも、桜の背中を軽く叩く。

「向こうに行くまでには泣き止みなさいよ。未来の旦那が心配するでしょ」

さらに、少し強めに叩く。

「すごい、家族と別れること気にしてるんでしょ」

「わか……ってる」

桜は慌てて袖で涙を拭く。
深く息を吸い、何度か呼吸を繰り返す。

華子がやわらかく微笑んだ。

「幸せにね」

その言葉に、桜はゆっくり頷く。

「凜も定期的に行き来するから。近況は凜に伝えればいいわ」

「まかせてよ」

凜が軽く笑う。

「私も、桜ちゃんがいるだけで安心だし。前よりあっちの世界、好きになれると思う」

それから、少し楽しそうに続けた。

「あ、あと。釘さしといたから、クロトさんにも」

「く、釘って……凜ちゃん、何言ったの?」

「ナイショ」

凜はにっこり笑う。

「じゃあ、準備はいい?」

「うん」

桜は小さく頷いた。

そして、もう一度、家族の方を見る。

「じゃあ、行ってくるね。また、1年後に」

祐子も、椿も、華子も、それぞれに頷いた。

凜が鏡に手を触れ、集中する。

「行って。今なら通れるから」

「ありがとう、凜ちゃん」

桜は一歩、踏み出した。

鏡に触れた瞬間、感覚が切り替わる。
1か月ぶりの、あの感覚。
結界の中へと足を踏み入れる。

だが――

以前とは何か違う。それがはっきりと分かる。
あぁ、自分はもう巫女ではないのだと。

その瞬間、急激な眠気が襲ってきた。
視界が揺れて、足元が崩れる。

――立っていられない。

そう思った瞬間、ふわりと体が支えられ、温かい腕に包まれる。

ゆっくりと顔を上げると、すぐ近くにクロトの顔があった。

近い――と、自然と顔が熱くなる。

でも、安堵と、それ以外の何かが混ざったようなクロトの表情を見て、拙いゼフィーリア語で、伝えたい言葉を口にする。

『……もどり、ました』

クロトはわずかに目を細める。

『……おかえりなさい、サクラ様』

その言葉にホッと安心して、桜の意識は眠りへと落ちていった。

――――――――――

クロトはリエットに許可を得て、桜を寝かせるために近くの客間へと足を向けた。

腕の中の重みを確かめるように、ほんのわずかに抱き直す。

視線を落とすと、眠っているサクラの目元がわずかに赤いことに改めて気づく。

やはり、泣いていたのだろう。
理由は、考えなくても分かる。

だからといって、手放すという選択はない。

桜がいない1か月。
信じていなかったわけではない。
戻ってくると、理解もしていた。

それでも、不安が消えることはなかった。
戻ってこないまま終わる夢を、何度も見た。

そのたびに目が覚めて、わずかに魔力の流れが乱れる。

今、腕の中にある温もりに意識を向けると、ゆっくりと呼吸が整っていく。
乱れていた魔力も、自然と落ち着いていくのが分かる。

桜の存在に、自分の状態が左右されていることも。
そして今、その存在ひとつで安定を取り戻していることも。

感情ひとつで、自身の膨大な魔力が揺れるなど、許されることではない。
それを制御するために、これまで積み重ねてきたのだから。

それでも。
自身の感情だけは、どうにもならないと分かっていた。

もちろん、感情の安定のために桜を閉じ込めて守るなど、あり得ない。

ならば――
自分のすべてをかけて、桜がそのままでいられるよう守るだけだ。

――――――――――

客間のベッドに、そっと横たえる。
乱れないように体勢を整える。

ただ、眠っているだけだと分かってはいる。
それでも、呼吸を確かめ、わずかに息を吐いた。

そのまま離れるはずだった。

だが、足が止まる。
視線が自然と顔へ落ちる。

眠っている桜は、あまりにも無防備で。

ほんの一瞬だけ迷い――
そっと、額に口づける。

触れるだけの、ごく短いものだった。

すぐに離れかけて、ほんの一瞬だけ、そのまま触れていたい衝動を抑える。

深く息を吐き出し、気持ちを切り替えるようにして、何事もなかったかのように視線を外した。

そのまま各所への報告へ向かうため、部屋を後にした。

――――――――――

しばらくして、桜はゆっくりと目を覚ました。

見慣れない天井に、一瞬だけ戸惑う。
それから、ここがゼフィーリアだと思い出した。

人の気配を感じる。
ベッドの傍の椅子にクロトが腰かけていた。

「……クロトさん、もしかして、ずっと、ここに?」

「いえ、報告がありましたので。戻ってきたのは、少し前です」

慌てて、ベッドから体を起こし、座る。

同時に、耳に違和感を覚え、指先が小さなイヤリングに触れる。

「これって、前に言ってた……?」

「えぇ。イヤリング型の翻訳機です」

小さく頷きながらも、桜はそれに触れたまま言葉を続ける。

「……でも、いずれ、ちゃんと、これに頼らずに話したいです」

クロトはわずかに目を細めたが、何も言わず、ポケットから守り石を取り出した。

「サクラ様、これを」

「よかった……ちゃんと、受け取れて」

嬉しそうにそれを受け取り、手の中で握りしめる。

少しの間を置いてから、意を決したように顔を上げる。

「あの、クロトさん」

そして、頬を少し赤らめながら、

「えっと、その……様付けは、もう……その、私、もう巫女じゃないですし……いつか、その……奥さん、とかになるのだし……」

最後の方は早口になり、小さな声になっていく。

クロトは一瞬だけ目を伏せ、それから静かに口を開いた。

「では、サクラと呼んでも?」

低く落ち着いた声だった。

桜は一瞬固まり、それから顔を真っ赤にしたまま、小さく頷く。

「……はい」

「では、サクラ」

その呼び方に、桜はさらに顔を赤くする。

「私からも、お願いしても?」

「あ、はい……もちろん」

「では、式ですが、半年後に行ってもよろしいでしょうか」

「え……」

一瞬、思考が止まる。

「は、半年……!?」

思わず声が裏返る。

視線がさまよい、やがてクロトと目が合う。
その表情は真剣で、どこか必死だった。

その瞬間、桜は理解する。
この1か月、どれだけ不安にさせていたのかを。

それでも。

桜は一度深く息を吸い、

「はい、あの……よろしくお願いいたします」

ぺこりと頭を下げた。

クロトは目を見開き、それから安堵の表情を浮かべる。

「ありがとうございます。私こそ、よろしくお願いいたします」

綺麗な礼を返す。

「あの、でも……」

桜は言葉を探すように視線を落とし、

「私……慣れていなくて……その……いきなり、いろいろは少し不安で……だから……ゆっくり、で……」

言葉にするほどに、顔が熱くなっていく。

クロトはふっと小さく笑った。

「分かりました」

「わがままを聞いていただいたので、無理はしないようにします」

その言葉に、桜は小さく頷く。

まだ慣れない呼び方も、距離も。
それでも――これから少しずつ、変わっていけたらと思う。

そう思いながら、桜はそっと守り石を握りしめた。


※次回、最終話です。
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