おはよう

 目の前に差し出された名刺を受け取ることもできず、コメントに困る。握りしめた携帯で110番を考えた。

「まあとにかくわたくしは怪しい者ではございません。ちょっと事件の香りに誘われてふらふらクラクラ現れた探偵です。そう、事件の香り。とても香ばしい焼きたてのパンみたいないい匂い。まさしく貴方から香る香る! 実に芳醇で魅力的!」
「は?」
「学校をサボったりしなさそうな女学生が真っ昼間からこんな場所に居るなんてまさしく事件! ええ、事件です。これぞまさしく若者が非行に走る瞬間の目撃。ここが現場。事件は現場で起きている!」

 恐怖を覚えたことが恥ずかしくなってきた。
 自称探偵は身振り手振りを繰り返し熱弁している。改めて見れば意外と背が高く、ひょろりと長い。筋肉質に見えないが、反応速度が異常に早い。壁に背中をくっつけたまま、どうやって逃げようか考えた。

「わたくしには貴方がどうしてここに居るのかわからない! こっそり化粧こそしていますが化粧は女性の嗜み。年々日差しが強くなる昨今肌を守るためにも化粧は必須。だからその程度なんてことはないのです! しかししかししかしです、貴方は白昼堂々学校を抜け出して授業をサボるような学生さんではないはずです。もしかしなくてもこれが初めて初体験。ドキドキ夏の大冒険ではありませんか?」

 ぐるりと首を巡らせて此方を見た自称探偵に震える。フクロウのように百八十度とは言わないが、近い角度で首が回ったように見えた。
 私の引きつった顔と沈黙を肯定と受け取った彼は、ええそうでしょうともと大仰に頷く。身体も此方を向いて、正面から向き合った。
 背の高い彼は腰を屈めて、学生鞄を盾のように抱える私と視線を合わせた。

「貴方は誘い込まれたんですよ」
「――え?」
「だってそうでしょう。そうとしか考えられない。たとえ学校を飛び出して確かめたいほど重要な何かがあったのだとしても、その最中にこんなところに迷い込むはずがない」
「こんなところって…」

 ただのビル裏…そこまで考えて、血の気が引いた。

 なんで私、そんなところに来たの。

 あの子の記録を確認したかったなら、道端に寄るだけでよかった。腰を落ち着かせて確認したいなら喫茶店でもよかった。平日の昼間に制服で店に入りたくなかったとしても、人気のない場所が女学生にとってどれだけ危険かなんてちょっと考えたらすぐわかる。今までそういった場所、路地裏とかは避けて生きてきたのに。
 なのになんで、当たり前みたいにここまで来たの。

 というかここ、どこだっけ。

「嗚呼…やはり貴方からは、芳醇な香りがする」

 陶然とした呟き。丸い眼鏡の向こう側で、彼の黒い目が溶けている。

「その香りに誘われて、大物まで釣れてしまったようです」
「え」

 べしゃりと、粘着質な音が響いた。

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