騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
 屋敷の中は、外とは別の空気に満ちていた。

 ざわめきも、音楽も届かない。
 静寂だけが、やわらかく広がっている。

 ベイルは迷いなく、奥の控室へと入った。

 「座れるか」
 
 短く告げる。

 促されるまま、セレスティアはソファに腰を下ろした。
 力が抜けたのか、背もたれにわずかに身体を預ける。

 ベイルはすぐに距離を詰めるわけではない。
 一歩だけ離れた位置で、様子を見る。

 「……目は回るか」

 「……少しだけ」

 素直な答え。

 その声を聞いてから、ベイルは小さく息を吐いた。

 卓上の水差しに手を伸ばし、グラスへ注ぐ。
 それを、無言で差し出す。

 「飲め」

 セレスティアは両手で受け取る。
 指先が、ほんの一瞬だけ触れた。

 そのまま、ゆっくりと口をつける。

 冷たい水が、熱を少しずつ下げていく。

 「……すみません」

 ぽつりと落ちる声。
 
 ベイルは首を横に振った。

 「謝る必要はない」

 間を置かず、続ける。

 「言わなかった俺の責任だ」
 「お前が酒に弱いと、事前に手を打つべきだった」

 セレスティアは、わずかに目を瞬かせる。

 (……この人は)

 視線を落とす。

 責めない。
 押し付けない。

 ただ、自分の側に引き取る。

 「……ありがとうございます」

 今度は、少しだけはっきりとした声。
 
 ベイルは答えない。

 代わりに、近くの椅子を引き、
 真正面ではなく、少しだけ横に位置を取って腰を下ろす。

 近すぎない。
 だが、手を伸ばせば届く距離。

 その配置に、わずかな意図があることに、セレスティアは気づかない。

 「……少し休め」

 低く、落ちる声。

 それは命令ではなく、逃げ場を用意するような響きだった。

 セレスティアは、小さく頷く。

 まぶたが、ゆっくりと落ちる。

 完全に眠るわけではない。
 けれど意識がやわらかくほどけていく。

 その時だった。

 ふと、バランスを崩すように、身体がわずかに傾く。

 咄嗟(とっさ)に、ベイルが立ち上がりかけ、支えるために手を伸ばした。
 触れるか触れないかの距離。

 その手が、セレスティアの閉じかけた視界の端に入る。

 その瞬間ーー
 
 セレスティアの指先が触れ、次いで、弱い力が(すが)るように絡む。

 セレスティアの指が、彼の腕を掴んでいた。

 「……」

 一瞬。

 ベイルの動きが止まる。

 視線が、そこに落ちる。

 このままでは、無理な体勢になると理解していながらーー
 振りほどく、という選択肢はなかった。

 小さく息を吐き、
 ベイルはそのまま体勢を崩すようにして、ソファの縁へと腰を下ろす。

 距離が、縮まる。

 支える位置を探るように腕を引き寄せると、セレスティアの身体は、抵抗もなく、ゆるやかに傾いた。

 そのままーー

 彼の肩に、静かに重みが預けられる。

 眠りに落ちかけたままの呼吸が、かすかに触れる距離。

 ベイルは、もう動かなかった。

 ーー動かせなかった。
 
 触れている重みは、軽い。

 それでも、離せば、崩れる気がした。

 ーーこの距離を、壊したくなかった。
 
 その様子を見ながら、わずかに視線を落とす。
 
 (……無理をさせた)

 社交の場に慣れているわけでもない。
 三年を、森で過ごしていた。

 ーーそれでいて、最初がこの場だ。

 (……負担は大きかったはず)

 誰にも聞こえない、内側の声。
 だが、その表情は変わらない。

 眠りに落ちる一歩手前。
 意識は曖昧で、
 掴んでいる自覚すらないのだろう。

 眠りかけている今、余計な刺激は避けるべきだ。

 わずかに体勢を調整し、肩にかかる重みを支える位置を整える。

 逃がさないためではなくーー

 ただ、崩さないために。

 「……寝顔を見るのも、三度目か」

 小さく零れた声は、呆れにも似ているのに、どこか慣れてしまったような響きを帯びていた。

 わずかに柔らいだ気配が混じる。

 (……まさか)
 
 ほんの一瞬、思考がよぎる。

 (他でも、こうなのか……?)

 わずかに、眉が寄る。

 ーーすぐに、消える。

 「……いや」

 それ以上、考えるのをやめる。

 小さく、息を吐いた。

 ただーー

 その距離を保ったまま、静かに様子を見守る。

 ーー視線は、離れない。
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