騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
静けさの中で、意識がゆっくりと浮かび上がる。
重くはない。
ただ、やわらかく沈んでいたものが、
少しずつ水面へ戻ってくるような感覚。
まぶたが、かすかに震える。
薄く、開く。
最初に見えたのは――
近すぎる距離にある、黒い影だった。
一瞬、思考が追いつかない。
(……え)
焦点が合う。
輪郭がはっきりする。
――ベイルだった。
驚くより先に、
距離の近さに気づく。
手を伸ばせば届く、ではない。
もう、届いている距離。
息が、かすかに触れるほど。
それだけではない。
自分の身体が、彼の肩にもたれかかっていることにーー
遅れて気づく。
(……近い)
その事実だけが、ゆっくりと意識に落ちてくる。
「……起きたか」
低い声。
「……はい」
かすれた声。
一瞬、言葉を探すように間が落ちる。
「……あの、私、どれくらいーー」
「ほんの僅かだ」
それだけで、説明は終わる。
いつもと変わらない調子。
だが、その位置だけが違う。
セレスティアは瞬きをする。
(……近い)
同じ言葉が、もう一度、内側で落ちる。
同時に――
自分の手が、何かを掴んでいることに気付く。
視線を落とす。
ベイルの腕。
その袖を、指先がしっかりと掴んだままになっている。
無意識だったのか。
それともーー。
「……あ」
小さく、息が漏れる。
反射的に離そうとしてーー
ほんの一瞬、躊躇う。
理由はない。
ただ、
離してしまえば、
この距離ごとほどけてしまうような気がした。
ベイルは何も言わない。
視線も動かさない。
ただ、そのままを受け入れている。
拒むでもなく、促すでもなく。
「……ご迷惑を……」
ようやく、離す。
指先が、そっとほどける。
その瞬間。
ほんのわずかに、何かが遠ざかるような感覚が残った。
「問題ない」
短く返した、その直後。
ほんのわずかに、間が落ちる。
視線が交わる。
近い。
――近すぎる。
もたれていた距離。
触れていた温度。
それがまだ、完全には消えていない。
(……これ以上は、良くない)
静かに、判断する。
次の瞬間。
ベイルは、ごく自然な動作で、ソファから立ち上がる。
音はほとんどしない。
動き自体も、意識しなければ見逃してしまいそうなほど静かだった。
それでも――
確かに、距離が一歩ぶんだけ開く。
空気が、わずかに緩む。
ーー近すぎた距離が、ほどけるように。
「……ここで休んでいろ」
何事もなかったように、
次の言葉を落とす。
話題を変える。
線を引く。
セレスティアは一瞬だけ、間を置いてから頷いた。
「……申し訳ありません」
わずかに伏せられた視線。
その直後、セレスティアの指先が無意識に胸元へと伸びる。
触れたのは、今朝贈られたばかりのネックレス。細い鎖と、小さな意匠。
ーー彼が、自らの手で留めたばかりのもの。
ベイルは、その仕草に一瞬だけ視線を落とし、わずかに間を置いてから、口を開く。
「気にするな。無理をする必要はない」
低い声は変わらないまま、視線だけが、外の気配へとわずかに向けられる。
「もう、大方は帰っている」
言葉は淡々としているのに。どこか状況を確かめるような響きがあった。
そしてーーほんのわずかに、視線が戻る。
「……十分だ」
短い一言。
それ以上を続けることはなく、ただ、それで終わらせるように。
けれど。
(……あれ)
セレスティアの胸の奥に、
わずかな引っかかりが残る。
安心したはずなのに。
距離が戻ったはずなのに。
なぜか――
少しだけ、物足りない。
理由は、分からない。
視線を上げる。
ベイルはいつも通りだった。
何も変わらない表情。
何も起きていないかのような距離。
――だからこそ。
さっきまでの近さだけが、
不自然に、意識に残った。
そのままベイルは動かない。
ほんの一瞬。
何かを確かめるように、セレスティアを見下ろす。
だがーー
何も言わない。
次の瞬間、視線を外す。
ためらいを断ち切るように。
「……すぐ戻る」
低く、それだけ告げる。
踵を返す。
衣擦れの音が、静かな空気をわずかに揺らす。
扉へ向かう足取りは、いつもと変わらない。
迷いも、揺らぎも見せない。
ーー扉が開く。
外の気配が、一瞬だけ流れ込み。
そして、閉じられる。
音は小さい。
それでも、その一音で、
この空間から彼の気配が切り離されたのが、はっきりとわかった。
残された静寂。
セレスティアは、しばらく動けなかった。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
胸元に触れていた指先が、わずかに力を帯びる。
そこにあるはずのない温度を、確かめるように。
ーーもう、触れられてはいないのに。
なぜか、そこに残っている気がした。
残されたのは、さっきまでの温度の記憶と、言葉にできない、小さな空白だけだった。
重くはない。
ただ、やわらかく沈んでいたものが、
少しずつ水面へ戻ってくるような感覚。
まぶたが、かすかに震える。
薄く、開く。
最初に見えたのは――
近すぎる距離にある、黒い影だった。
一瞬、思考が追いつかない。
(……え)
焦点が合う。
輪郭がはっきりする。
――ベイルだった。
驚くより先に、
距離の近さに気づく。
手を伸ばせば届く、ではない。
もう、届いている距離。
息が、かすかに触れるほど。
それだけではない。
自分の身体が、彼の肩にもたれかかっていることにーー
遅れて気づく。
(……近い)
その事実だけが、ゆっくりと意識に落ちてくる。
「……起きたか」
低い声。
「……はい」
かすれた声。
一瞬、言葉を探すように間が落ちる。
「……あの、私、どれくらいーー」
「ほんの僅かだ」
それだけで、説明は終わる。
いつもと変わらない調子。
だが、その位置だけが違う。
セレスティアは瞬きをする。
(……近い)
同じ言葉が、もう一度、内側で落ちる。
同時に――
自分の手が、何かを掴んでいることに気付く。
視線を落とす。
ベイルの腕。
その袖を、指先がしっかりと掴んだままになっている。
無意識だったのか。
それともーー。
「……あ」
小さく、息が漏れる。
反射的に離そうとしてーー
ほんの一瞬、躊躇う。
理由はない。
ただ、
離してしまえば、
この距離ごとほどけてしまうような気がした。
ベイルは何も言わない。
視線も動かさない。
ただ、そのままを受け入れている。
拒むでもなく、促すでもなく。
「……ご迷惑を……」
ようやく、離す。
指先が、そっとほどける。
その瞬間。
ほんのわずかに、何かが遠ざかるような感覚が残った。
「問題ない」
短く返した、その直後。
ほんのわずかに、間が落ちる。
視線が交わる。
近い。
――近すぎる。
もたれていた距離。
触れていた温度。
それがまだ、完全には消えていない。
(……これ以上は、良くない)
静かに、判断する。
次の瞬間。
ベイルは、ごく自然な動作で、ソファから立ち上がる。
音はほとんどしない。
動き自体も、意識しなければ見逃してしまいそうなほど静かだった。
それでも――
確かに、距離が一歩ぶんだけ開く。
空気が、わずかに緩む。
ーー近すぎた距離が、ほどけるように。
「……ここで休んでいろ」
何事もなかったように、
次の言葉を落とす。
話題を変える。
線を引く。
セレスティアは一瞬だけ、間を置いてから頷いた。
「……申し訳ありません」
わずかに伏せられた視線。
その直後、セレスティアの指先が無意識に胸元へと伸びる。
触れたのは、今朝贈られたばかりのネックレス。細い鎖と、小さな意匠。
ーー彼が、自らの手で留めたばかりのもの。
ベイルは、その仕草に一瞬だけ視線を落とし、わずかに間を置いてから、口を開く。
「気にするな。無理をする必要はない」
低い声は変わらないまま、視線だけが、外の気配へとわずかに向けられる。
「もう、大方は帰っている」
言葉は淡々としているのに。どこか状況を確かめるような響きがあった。
そしてーーほんのわずかに、視線が戻る。
「……十分だ」
短い一言。
それ以上を続けることはなく、ただ、それで終わらせるように。
けれど。
(……あれ)
セレスティアの胸の奥に、
わずかな引っかかりが残る。
安心したはずなのに。
距離が戻ったはずなのに。
なぜか――
少しだけ、物足りない。
理由は、分からない。
視線を上げる。
ベイルはいつも通りだった。
何も変わらない表情。
何も起きていないかのような距離。
――だからこそ。
さっきまでの近さだけが、
不自然に、意識に残った。
そのままベイルは動かない。
ほんの一瞬。
何かを確かめるように、セレスティアを見下ろす。
だがーー
何も言わない。
次の瞬間、視線を外す。
ためらいを断ち切るように。
「……すぐ戻る」
低く、それだけ告げる。
踵を返す。
衣擦れの音が、静かな空気をわずかに揺らす。
扉へ向かう足取りは、いつもと変わらない。
迷いも、揺らぎも見せない。
ーー扉が開く。
外の気配が、一瞬だけ流れ込み。
そして、閉じられる。
音は小さい。
それでも、その一音で、
この空間から彼の気配が切り離されたのが、はっきりとわかった。
残された静寂。
セレスティアは、しばらく動けなかった。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
胸元に触れていた指先が、わずかに力を帯びる。
そこにあるはずのない温度を、確かめるように。
ーーもう、触れられてはいないのに。
なぜか、そこに残っている気がした。
残されたのは、さっきまでの温度の記憶と、言葉にできない、小さな空白だけだった。