騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
 薄く開け放たれた窓から、夜風がレースのカーテンを揺らしていた。
 室内は静かだった。

 ソファに腰を下ろしたまま、彼女は身じろぎひとつしない。

 手元の扇を、開きもせずに握りしめている。

 視線は伏せられたままーーただ、思考だけがどこか遠くへ逸れていた。

 あまりにも静かで――だからこそ、胸の奥に渦巻くものだけが、やけに大きく感じられる。

 あの婚約披露のガーデンパーティで、最も印象を残した令嬢ではない。
 けれどーー
 確かに、あの輪の中にいた一人だった。

 「……どうして」

 ぽつりと、零れた声。

 誰に向けたものでもない。
 けれど、確かに“あの光景”に向けての言葉だった。

 ――あの庭園での光景。

 柔らかな陽光の下。
 誰よりも自然に、そこに在った彼女。

 セレスティア。

 名を思い浮かべただけで、喉の奥が焼けつく。

 (どうして、あの女が……)

 指先が震える。
 気づけば、手にしていた扇を強く握りしめていた。

 あの場にいた誰もが、彼女を見ていた。
 あの人の隣に立つのが、当然であるかのように。

 ――ベイル様の、隣に。

 「違う……」

 思わず、言葉が漏れる。

 「違うのに……あの場所は……」

 そこから先は、うまく言葉にならなかった。

 胸の奥にあるものは、もっと濁っていて、もっと重い。
 言葉にすれば、きっと形を持ってしまう。

 それが、怖かった。

 けれど。

 (わたくしの方が、ずっと……)

 幼い頃から積み重ねてきたもの。
 振る舞いも、教養も、立場も。

 ――すべてが、あの女より上であるはずなのに。

 「どうして……」

 また同じ言葉がこぼれる。

 思考が堂々巡りを始める。

 あの微笑み。
 あの落ち着き。
 あの“何もしていないようで、すべてを奪っていく”ような存在感。

 (気に入らない)

 その一言が、胸の奥で静かに沈んだ。

 そして、じわりと広がっていく。

 (気に入らない)

 (気に入らない)

 (気に入らない)

 「……あんな女」

 気づけば、唇が歪んでいた。

 「何も持っていないくせに」

 自分でも、何を根拠にそう言っているのか分からない。

 分からないのに、止まらない。

 ーー「だから彼女は、私の隣にいる」

 ふいに、ベイルの言葉が脳裏に蘇る。

 頭の中に、何度も同じ光景が再生される。

 彼の視線。
 彼女に向けられた、あのわずかな柔らかさ。

 それを思い出すたびに、胸の奥が軋んだ。

 (違う)

 (あれは、わたくしに向けられるべきものだった)

 その思いだけが、異様なほどにはっきりしている。

 胸の奥を、鈍く(えぐ)るように。

 続くはずの言葉は、形にならない。

 けれど、代わりに別のものが満ちていく。

 (奪われた)

 その認識だけが、やけに滑らかに胸に落ちた。

 誰も、何も奪っていない。
 それは理解しているはずなのに。

 (そうだわ)

 (奪われたのよ)

 その方が、楽だった。

 理由ができるから。
 
 怒っていい理由が。

 憎んでいい理由が。

 「……許せない」

 低く、押し殺した声。

 その言葉と同時に、胸の奥の“何か”が、ゆっくりと形を持ち始める。

 熱とも違う。
 冷たさとも違う。

 ただ、濁って重いもの。

 それが、内側から滲み出るように広がっていく。

 息が、少しだけ浅くなる。

 (……なに、これ)

 自分の感情なのに、どこか“自分ではない”気がした。

 違和感に気づいたときには、もう遅かった。

 感情と、何か別のものが、境界を失い始めている。

 それでも、止めようとは思わなかった。

 思えなかった。

 「……あの女さえ、いなければ」

 その一言が、決定打だった。

 胸の奥で膨らんでいたものが、音もなく“満ちる”。

 静寂の中で、彼女は気づかない。

 それがただの感情ではなく――
 “歪み”へと変わり始めていることに。

 そしてその夜。

 彼女は、眠りにつくことができなかった。
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