騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
第三話「夜空の下の幻」
「――セレスティア」
ベイルが名を呼んだ、その瞬間だった。
空気の奥で、何かが歪んでいる。
――来る。
「……どうして……」
掠れた声が、背後から落ちた。
振り返る。
「……見て、くれないの」
そこに立っていたのは、一人の令嬢。
ドレスの裾を握りしめ、俯いたまま震えている。
だが。
「どうして……あなたなの……」
顔を上げた、その瞳。
濁っている。
理性の光が、ない。
それでもなおーー
その視線だけが、ベイルを捉えて離さない。
(……見覚えがある)
社交の場で、何度か顔を合わせた令嬢だったはずだ。
名前までは、思い出せない。
「……っ」
次の瞬間、令嬢の身体が弾かれたように跳ねた。
一直線に、セレスティアへ。
速い――が。
「危ない!」
声をあげると同時に、ベイルはその腕を掴んだ。
捻り上げ、動きを封じる。
だが。
「――っ、これは……!」
重い。
ただの令嬢の力ではない。
骨が軋むほどの抵抗。
そして。
触れた瞬間、まとわりつく“歪み”。
(……瘴気、ではない)
もっと、生々しい。
感情が、そのまま形を持ったような――
嫉妬、焦燥、執着。
それが暴れている。
「離して……!」
叫ぶ声は、混じっていた。
本人のものではない何かが、滲んでいる。
「……見て……」
掠れて、消えかけた願い。
震える唇が、かすかに開く。
「ベイル様……!」
周囲がざわめく。
だが誰も近づけない。
本能が拒んでいる。
ベイルは歯を食いしばった。
抑え込める。
だが――
(……おかしい)
(令嬢……なのか?)
その瞬間。
「……ベイル様」
セレスティアの静かな声が、背後から届く。
振り向く。
そして、息を止めた。
セレスティアの髪が、わずかに光を帯びている。
透き通るような白。
そして。
その瞳。
深く沈んだ、漆黒。
(……変わった)
理解する。
あの時と同じだ。
龍を前にした時の――
「そのまま、押さえていてください」
柔らかな声だった。
命令ではない。
判断でもない。
ただ、そう思ったから口にしたような響き。
ベイルは一瞬、言葉を失う。
(触れる気なのか……)
止めるべきか。
その判断が、頭をよぎる。
だが。
セレスティアはもう、一歩踏み出していた。
迷いなく。
引き寄せられるように。
(……っ)
止められたはずだった。
だが。
――できなかった。
理由は、分からない。
ただ。
「……離しはしない」
低く呟き、拘束は維持したまま――
わずかに、間を作る。
触れられる距離を。
セレスティアは、令嬢の前に立った。
狂気に揺れる瞳を、まっすぐ見つめる。
否定しない。
逸らさない。
ただ、見る。
ーー触れなくても、分かる。
この人は、苦しい。
胸の奥で、何かが絡まって、ほどけなくなっている。
「……つらいね」
ぽつりと、こぼれた。
あまりにも自然に。
まるで、当たり前のことを言うように。
令嬢の動きが、わずかに揺らぐ。
その瞬間。
セレスティアの手が、そっと令嬢の額に触れた。
拒絶ではない。
縋るような、壊れかけた反応。
「いや……っ」
その声すら、弱い。
「だいじょうぶ」
吐息のような声。
その瞬間ーー
触れた場所に、淡い光が灯った。
強くはない。
だが。
確かに、“そこにある”光。
「……返れるよ」
セレスティアが、静かに言った。
諭すでもなく。
命じるでもなく。
ただ、そう知っているかのように。
「……イルの……名のもとに」
言葉が、零れる。
「歪みを……ほどいて」
「……もとへ……」
祈りのように。
その瞬間。
歪みが、ほどけた。
絡みついていた感情が、静かに解けていく。
抵抗は、ない。
押し返す力も、ない。
ただ。
元の形へと、還っていく。
ベイルは息を呑む。
(……これは)
脳裏に、閃く。
森で見た、あの剣。
龍を還した、あの光。
だが。
今、目の前にあるのは――
静かで。
剣もない。
陣もない。
ただ、触れている箇所が、淡く光っているだけ。
それなのに。
(やっていることは――あの時と同じ……!)
「……ぁ……」
令嬢の声が、変わる。
混じりが消えていく。
「わたし……」
膝から崩れ落ちる。
ベイルがとっさに支えた。
力が抜けている。
完全に意識を失っていた。
セレスティアは、ゆっくりと手を離した。
その瞳の漆黒が、揺れる。
「……」
ベイルは言葉を失った。
龍を還したあの時。
力だと、思っていた。
技だと、理解していた。
ーーだが。
それは違う。
知っていたはずのものと、どこか決定的に噛み合わない。
理解が、追いつかない。
「……お前、その……色……」
問いかけが、途中で止まる。
言葉にしようとして、できない。
何をどう聞けばいいのかーー分からない。
ただ、ひとつだけ。
本能が、告げている。
目の前にいるのはーー
触れてはならないものだと。
息を呑む。
一歩踏み出すことすら、躊躇われた。
セレスティアは、少しだけ困ったように笑った。
「……彼女は、戻りました」
それだけで、すべてが終わる。
ベイルは、ただ黙ってそれを見ていた。
そして、知る。
――これは。
剣では、届かない領域。
そしてーー
あの色。
白銀の髪と、漆黒の瞳。
初めて、森で会った時の彼女の姿が、重なる。
木々の奥、淡い光の中に立っていた。
白銀の髪が、静かに揺れ、
漆黒の瞳は、どこまでも深かった。
目を逸らせば、消えてしまいそうでーー
ただ、見ていることしかできなかった。
それほどまでに、
現実のものとは思えない存在だった。
……それが。
否定しようのない現実として、
今、確かに、
目の前にいる。
あの男ーーノクティスが、彼女を欲した理由はーー
知っていたはずだった。
……だが。
今、改めて。
それを、突きつけられた気がした。
ベイルが名を呼んだ、その瞬間だった。
空気の奥で、何かが歪んでいる。
――来る。
「……どうして……」
掠れた声が、背後から落ちた。
振り返る。
「……見て、くれないの」
そこに立っていたのは、一人の令嬢。
ドレスの裾を握りしめ、俯いたまま震えている。
だが。
「どうして……あなたなの……」
顔を上げた、その瞳。
濁っている。
理性の光が、ない。
それでもなおーー
その視線だけが、ベイルを捉えて離さない。
(……見覚えがある)
社交の場で、何度か顔を合わせた令嬢だったはずだ。
名前までは、思い出せない。
「……っ」
次の瞬間、令嬢の身体が弾かれたように跳ねた。
一直線に、セレスティアへ。
速い――が。
「危ない!」
声をあげると同時に、ベイルはその腕を掴んだ。
捻り上げ、動きを封じる。
だが。
「――っ、これは……!」
重い。
ただの令嬢の力ではない。
骨が軋むほどの抵抗。
そして。
触れた瞬間、まとわりつく“歪み”。
(……瘴気、ではない)
もっと、生々しい。
感情が、そのまま形を持ったような――
嫉妬、焦燥、執着。
それが暴れている。
「離して……!」
叫ぶ声は、混じっていた。
本人のものではない何かが、滲んでいる。
「……見て……」
掠れて、消えかけた願い。
震える唇が、かすかに開く。
「ベイル様……!」
周囲がざわめく。
だが誰も近づけない。
本能が拒んでいる。
ベイルは歯を食いしばった。
抑え込める。
だが――
(……おかしい)
(令嬢……なのか?)
その瞬間。
「……ベイル様」
セレスティアの静かな声が、背後から届く。
振り向く。
そして、息を止めた。
セレスティアの髪が、わずかに光を帯びている。
透き通るような白。
そして。
その瞳。
深く沈んだ、漆黒。
(……変わった)
理解する。
あの時と同じだ。
龍を前にした時の――
「そのまま、押さえていてください」
柔らかな声だった。
命令ではない。
判断でもない。
ただ、そう思ったから口にしたような響き。
ベイルは一瞬、言葉を失う。
(触れる気なのか……)
止めるべきか。
その判断が、頭をよぎる。
だが。
セレスティアはもう、一歩踏み出していた。
迷いなく。
引き寄せられるように。
(……っ)
止められたはずだった。
だが。
――できなかった。
理由は、分からない。
ただ。
「……離しはしない」
低く呟き、拘束は維持したまま――
わずかに、間を作る。
触れられる距離を。
セレスティアは、令嬢の前に立った。
狂気に揺れる瞳を、まっすぐ見つめる。
否定しない。
逸らさない。
ただ、見る。
ーー触れなくても、分かる。
この人は、苦しい。
胸の奥で、何かが絡まって、ほどけなくなっている。
「……つらいね」
ぽつりと、こぼれた。
あまりにも自然に。
まるで、当たり前のことを言うように。
令嬢の動きが、わずかに揺らぐ。
その瞬間。
セレスティアの手が、そっと令嬢の額に触れた。
拒絶ではない。
縋るような、壊れかけた反応。
「いや……っ」
その声すら、弱い。
「だいじょうぶ」
吐息のような声。
その瞬間ーー
触れた場所に、淡い光が灯った。
強くはない。
だが。
確かに、“そこにある”光。
「……返れるよ」
セレスティアが、静かに言った。
諭すでもなく。
命じるでもなく。
ただ、そう知っているかのように。
「……イルの……名のもとに」
言葉が、零れる。
「歪みを……ほどいて」
「……もとへ……」
祈りのように。
その瞬間。
歪みが、ほどけた。
絡みついていた感情が、静かに解けていく。
抵抗は、ない。
押し返す力も、ない。
ただ。
元の形へと、還っていく。
ベイルは息を呑む。
(……これは)
脳裏に、閃く。
森で見た、あの剣。
龍を還した、あの光。
だが。
今、目の前にあるのは――
静かで。
剣もない。
陣もない。
ただ、触れている箇所が、淡く光っているだけ。
それなのに。
(やっていることは――あの時と同じ……!)
「……ぁ……」
令嬢の声が、変わる。
混じりが消えていく。
「わたし……」
膝から崩れ落ちる。
ベイルがとっさに支えた。
力が抜けている。
完全に意識を失っていた。
セレスティアは、ゆっくりと手を離した。
その瞳の漆黒が、揺れる。
「……」
ベイルは言葉を失った。
龍を還したあの時。
力だと、思っていた。
技だと、理解していた。
ーーだが。
それは違う。
知っていたはずのものと、どこか決定的に噛み合わない。
理解が、追いつかない。
「……お前、その……色……」
問いかけが、途中で止まる。
言葉にしようとして、できない。
何をどう聞けばいいのかーー分からない。
ただ、ひとつだけ。
本能が、告げている。
目の前にいるのはーー
触れてはならないものだと。
息を呑む。
一歩踏み出すことすら、躊躇われた。
セレスティアは、少しだけ困ったように笑った。
「……彼女は、戻りました」
それだけで、すべてが終わる。
ベイルは、ただ黙ってそれを見ていた。
そして、知る。
――これは。
剣では、届かない領域。
そしてーー
あの色。
白銀の髪と、漆黒の瞳。
初めて、森で会った時の彼女の姿が、重なる。
木々の奥、淡い光の中に立っていた。
白銀の髪が、静かに揺れ、
漆黒の瞳は、どこまでも深かった。
目を逸らせば、消えてしまいそうでーー
ただ、見ていることしかできなかった。
それほどまでに、
現実のものとは思えない存在だった。
……それが。
否定しようのない現実として、
今、確かに、
目の前にいる。
あの男ーーノクティスが、彼女を欲した理由はーー
知っていたはずだった。
……だが。
今、改めて。
それを、突きつけられた気がした。