騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
 人の流れが落ち着き、ざわめきが遠のいたあと。

 ベイルは、静かにセレスティアの隣へ戻る。

 並び立つ距離は、近すぎず、遠すぎず。

 けれどーー意識して、一歩だけ近い。

 短い沈黙。

 夜風が、やわらかくドレスの裾を揺らした。

 「……大丈夫か」

 低く、抑えた声。

 気遣いはあるが、踏み込まない。

 セレスティアは一瞬だけ視線を伏せーー

 すぐに顔を上げる。

 そして。

 微笑んだ。

 「……大丈夫です」

 柔らかな声音。

 安心させるための、いつもの笑み。

 だが。

 その奥に残る、わずかな呼吸の浅さ。

 ベイルは、それを見逃さない。

 一拍。

 ほんのわずかな間を置いてーー

 「そうか」

 と、返し。

 次の瞬間。

 そっと、彼女の手を取った。

 強くはない。

 引き寄せるわけでもない。

 社交の場にふさわしい、節度ある所作。

 だがその指先は、確かに彼女を捉えている。

 セレスティアの瞳が、わずかに揺れた。

 「……ベイル様」

 呼びかけは、小さく。

 だが、解こうとはしない。

 ベイルは視線を落とさず、静かに言う。
 
 「無理をするな、とは言わない」

 一瞬だけ、指先に力がこもる。

 「だが」

 わずかに距離を詰める。

 「一人で、背負う必要はない」

 低く、はっきりと。

 逃げ場を与えない声で。

 セレスティアの呼吸が、ほんのわずかに止まる。

 その言葉は、優しさだけではない。

 全てを受け入れたうえでの、踏み込み。

 選んだ者の責任としての響きを持っていた。

 「……何も、聞かないのですね」
 
 静かな問い。

 夜のざわめきに紛れそうなほどの、小さな声。

 だが、確かにベイルへ向けられている。

 ベイルは、わずかに視線を落としーーすぐに戻す。

 「……聞かないんじゃない」

 低く、静かな声。

 指先は、離さないまま。

 「今は、必要ないと判断しているだけだ」

 迷いのない声音。

 断じるようでいて、押し付けではない。

 「お前が話すべき時が来れば、その時に聞く」

 一拍。

 「ずっとーー」

 わずかに、息を落とす。

 「俺は勝手に隣にいる」

 静かに言い切る。

 セレスティアの瞳が、わずかに見開かれる。

 その奥で、何かがほどける。

 「……勝手に、ですか」

 かすかに、息を含んだ声。

 ほんのわずかにーー

 セレスティアの笑みが、ほんのわずかにーー
 質を変える。

 「そうだ」

 短く、揺るがない。

 「文句は受け付けない」

 ベイルのわずかに、柔らかさを帯びた声。

 セレスティアは、一瞬だけ目を伏せた。

 ーー拒まれなかった。

 それどころか。

 逃げ場すら、与えられなかった。

 それが、なぜかーー

 怖くない。

 (……この人なら)

 セレスティアは、一度だけ視線を伏せる。

 小さく息を吸ってーー

 「……では」

 言いかけて、止まる。

 わずかに迷い、

 それでも、逃げすに顔を上げる。

 「その……少しだけ……」

 一度、言葉が途切れる。

 らしくない沈黙。

 そして。

 ほんのわずかに声を落とした。

 「……甘えても……いいですか」

 その言い方は、あまりにも不慣れで。

 ただーー

 不器用なまま、素直に差し出された言葉。

 言い終えた瞬間。

 自分でも気づいたのか、視線が合わない。

 わずかに顔を逸らす。

 逃げるようでいて、完全には逸らしきれない。

 夜気の中。

 その頬に差した熱は、はっきりとは見えない。

 だがーー

 近くにいる者には、わかる程度には。

 ほんのりと、色を帯びていた。

 一瞬。

 ベイルは、言葉を失った。

 (……これは、不意打ちだな)

 胸の奥が、わずかに揺れる。

 この“言い慣れていなさ”はーー反則だ。

 視線を逸らしかけて、止める。

 代わりに、ほんの一瞬だけ目を細めた。

 それでも表には出さないまま。

 何事もなかったかのように、言う。

 「もちろんだ」
 
 短く。

 だが、間違いなく。

 その一言に、全てを含めて。

 それから、ほんのわずかに声音を落とす。

 「今さら、遠慮は無用だ」

 指先に、静かな力がこもる。

 逃がさないように。

 確かめるように。

 そして。

 「ーー婚約者なのだから」

 静かに、言い切る。

 セレスティアの呼吸が止まる。

 星が、一つ流れる。

 その言葉は、ただの立場の確認ではない。

 選び、引き受けた者の宣言だった。

 セレスティアの胸の奥に、あの婚約披露の日の感覚がよみがえる。
 
 酔って、意識のないまま、預けてしまった温もり。

 離れた時に残った、理由のわからない空白。

 小さく、息を吐く。

 (……いいのだと、言われた)

 ほんのわずかに、迷い。

 それでも。

 繋いだ手は、そのままに。

 セレスティアは、躊躇うように一歩だけ近づき、そのまま、静かにベイルの肩へと身を預ける。

 確かめるように。

 埋めるように。

 確かに、重みを乗せる。

 ーーその瞬間。

 (……待て)

 ベイルの思考が、止まる。

 確かに、「甘えていい」とは言った。
 
 だがーー

 今、ここでこんな風に来るとは、想定していない。

 「……少しだけ、ですから」

 セレスティアの小さな声。

 伝わる体温。

 あまりにも自然に、そこにある。

 一瞬だけ、呼吸が乱れる。

 だが。

 内心で、短く息を吐く。

 ーー彼女らしい。

 思いもよらないところで、無防備に距離を詰めてくる。
 それも、ためらいなく、当たり前のように。

 こちらの心の準備など、まるで関係ない。

 ……まったく。

 ……調子が狂う。

 だがーー
 それが、どうしようもなく

 (……愛おしい)

 ほんのわずかに、目を細める。
 
 動揺は、外には出さない。
 
 ベイルは、何も言わない。

 ただ。

 その重みを受け止める。

 むしろーー

 わずかに、彼女の方へと重心を寄せた。

 支えるように。

 逃がさないように。

 それでいてーー縛らないように。

 夜空の下。

 流れた星の軌跡が、静かに消えていく。

 その余韻の中で。

 二人の距離だけが、ほどけることなくーーそこに残っていた。
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