騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
第7章 帝都への帰還
第一話「甘い囁き」
夜は、深く沈んでいた。
西離宮の一室。
灯りは落とされ、ただ月光だけが、薄く床をなぞっている。
静寂。
ーーそのはずだった。
……違う。
眠りの底で、セレスティアはそれに気づく。
音がない。
風もない。
それなのにーー
“何かが、いる”
空間の中ではない。
ーーもっと、内側に。
意識が、ゆっくりと浮上する。
けれど、身体が動かない。
指先も、喉も、息さえも、重い。
深く、侵されている感覚。
目を開けようとする。
けれどーー動かない。
まるで、許されていないように。
「……無理に、目を開けなくてもいい。そのうち見えてくる」
声が、落ちた。
すぐ、近くで。
呼吸が止まる。
この声を……知っている。
ーー思い出したくない響き。
目はーー開いていない。
瞼は閉じたままのはずなのに。
次の瞬間。
視界が、ひらく。
ーー見えた。
いつもの見慣れた天井に、寝台の縁。
ーーけれど。
どこか、現実味がない。
その中に。
ベッドの傍。
影の中に、溶けるように立っている。
黒い影。
光を吸い込むような衣。
その奥にある、温度を欠いた整いすぎた顔立ち。
緩やかに揺れる葡萄酒色の髪。
熱を持たない暗赤色の瞳が、こちらを捉える。
(……ノクティス)
輪郭ははっきりしているのに、どこか曖昧。
(……これは、夢?)
「君に、選択肢を持ってきた」
声だけが、不自然に鮮明だった。
「……選択肢?」
「ああ」
穏やかな声。
だが、どこか確信に満ちている。
視線を上げると、ノクティスの姿だけが、妙に輪郭を保っている。
「君はまだ、“宙に浮いている”」
「エルランドの血を持ちながら」
「その責務から逃れ」
「名も、立場も、曖昧なまま」
言葉が、空気に沈むように落ちていく。
「……逃れてなど」
「いる」
かぶせるように、しかし静かに。
その一言だけが、やけに重く響いた。
「でなければ、ここにはいない」
言葉が、詰まる。
喉の奥が、うまく動かない。
「……婚約は、すでに社交界で認知されています」
「確かに、社交界においては……」
わずかに首を傾げる仕草。
それだけで、距離が縮まったように感じる。
「だが、国王からの正式な承認は、まだ降りていないはずだ」
「それは……」
「当然だ」
「……君は隣国出身。そして、本来であれば、エルランドの家督を継ぐはずの者なのだから」
「そう、簡単に承認は降りない」
「君一人の意思で、完結できる話でもないからな」
言葉が正しいからこそ、反論が追いつかない。
「……エルランドの後継については、叔父が担っているはずです」
「……今は、だ」
ほんのわずか、間。
その沈黙が、妙に長く感じる。
「それは、君が死んだものと扱われていたからだ」
「だが……生きていた」
「つまりーーまだ、変えられる」
その言葉が落ちたとたん、足元が、わずかに揺れた気がした。
「本来なら君は、あの地に立つべきだ」
「家を継ぎ」
「領を治め」
「その血にふさわしい役割を果たす」
「……それが、正しいと?」
「正しいかどうかではない」
一歩、近づく。
「“そういうものだ”」
沈黙。
逃げ場のない理屈。
「……私は」
小さく、かすれる声。
「私は、あの名が……」
言い切る前に、視線が落ちる。
「重いか?」
セレスティアは、何も言わない。
「当然だ」
ノクティスはあっさりと言う。
「価値があるものほど、重い」
「……価値、ですか」
「そうだ」
「君は、価値だ」
その言葉に、はっきりとした温度はない。
ただ事実を告げるように。
「血も」
「家も」
「存在そのものも」
息が、近い。
「だからこそ、守られるべきだ」
「守られる……?」
「そうだ」
「“正しい形で”」
沈黙。
その言葉の意味が、ゆっくりと沈んでいく。
「……正しい形、とは」
ほんのわずかに、間。
「簡単だ」
さらに一歩。
もう、逃げ場はない。
「君が、然るべき場所に収まること」
「……それが」
「婚姻だ」
風が止まったような静けさ。
その一言だけが、やけに明瞭に響いた。
逃げ場のない場所に、落とされた言葉。
セレスティアは動けない。
何かを言おうとしてーー
声にならない。
「……」
「君一人で背負う必要はない」
「家も」
「領地も」
「血も」
「すべて、引き受ける」
ノクティスの声は、変わらず穏やかだった。
「……誰が」
そう、ようやく零した瞬間。
「私だ」
ノクティスが答える。
即答だった。
はっきりと。
迷いなく。
「君はただ、そこにいればいい」
「何も失わずに済む」
「何も捨てずに済む」
「すべて、守られる」
沈黙。
揺れる呼吸。
「……それが」
かすれる声。
「あなたの言う、“選択肢”……ですか」
「そうだ」
「合理的で」
「穏やかで」
「美しい解だ」
ゆっくりと、手が伸びる。
セレスティアの頬に、触れかけて――
「……なぜ」
動きが、ほんのわずかに止まる。
「なぜ、そこまで」
問い。
かすかな、震え。
ノクティスは、ほんの少しだけ目を細める。
「簡単なことだ」
その距離で。
逃げ場のない距離で。
「君が“そういう存在”だからだ」
指先が、触れる。
「価値がある」
「失われるべきではない」
顔が、ゆっくりと近づく。
「……そして」
息が触れる距離。
「私のものになるのが、最も理にかなっている」
「……それで、いいのかもしれない」
セレスティアの口から無意識に、零れた言葉。
その瞬間。
胸の奥で、何かがーー静かにほどけた。
重かったはずのものが、少しずつ、形を失っていく。
イルの名も。
自分と言う輪郭も。
背負うべき責務も。
エルランドに連なる血も、役目も。
選ばなければならない未来も。
すべてが、遠のいていく。
ーー本当は、そうしてはいけないはずなのに。
(……もう、どうでもいい)
ふと、そんな感覚がよぎる。
考えなくていい。
迷わなくていい。
選ばなくていい。
ただ、委ねればいい。
それだけでーー
すべてが、整う。
視界が、ゆるやかに霞む。
ノクティスの声だけが、はっきりと、輪郭を持って響く。
「そうだ」
優しく、肯定する声。
それだけでいい、と言われているように。
(……それで、いい)
思考が、静まっていく。
抗おうとしていたはずの何かが、どこにあったのかさえ、分からなくなる。
ーー誰かの顔が、浮かびかけて。
ほんの一瞬だけ、心が引き戻される。
けれど。
それもすぐに、沈んだ。
(……大丈夫)
心のどこかで、誰かに言い訳をするように。
(ちゃんと、守られるから)
(何も、失わないから)
ノクティスの指先が、頬に触れている。
その温度すら、心地よいと感じてしまう。
「……私の元へ」
顔が、近づく。
息が、触れる。
近すぎて、焦点すら曖昧な距離。
それでも。
暗赤の瞳だけが、はっきりと浮かび上がる。
深い。
底が見えない。
覗き込まれているのに、引きずり込まれる。
ーーその瞬間だけ、時間が引き延ばされたように。
逃げる理由も。
抗う力も。
もう、残っていない。
――唇が、重なりかける。
西離宮の一室。
灯りは落とされ、ただ月光だけが、薄く床をなぞっている。
静寂。
ーーそのはずだった。
……違う。
眠りの底で、セレスティアはそれに気づく。
音がない。
風もない。
それなのにーー
“何かが、いる”
空間の中ではない。
ーーもっと、内側に。
意識が、ゆっくりと浮上する。
けれど、身体が動かない。
指先も、喉も、息さえも、重い。
深く、侵されている感覚。
目を開けようとする。
けれどーー動かない。
まるで、許されていないように。
「……無理に、目を開けなくてもいい。そのうち見えてくる」
声が、落ちた。
すぐ、近くで。
呼吸が止まる。
この声を……知っている。
ーー思い出したくない響き。
目はーー開いていない。
瞼は閉じたままのはずなのに。
次の瞬間。
視界が、ひらく。
ーー見えた。
いつもの見慣れた天井に、寝台の縁。
ーーけれど。
どこか、現実味がない。
その中に。
ベッドの傍。
影の中に、溶けるように立っている。
黒い影。
光を吸い込むような衣。
その奥にある、温度を欠いた整いすぎた顔立ち。
緩やかに揺れる葡萄酒色の髪。
熱を持たない暗赤色の瞳が、こちらを捉える。
(……ノクティス)
輪郭ははっきりしているのに、どこか曖昧。
(……これは、夢?)
「君に、選択肢を持ってきた」
声だけが、不自然に鮮明だった。
「……選択肢?」
「ああ」
穏やかな声。
だが、どこか確信に満ちている。
視線を上げると、ノクティスの姿だけが、妙に輪郭を保っている。
「君はまだ、“宙に浮いている”」
「エルランドの血を持ちながら」
「その責務から逃れ」
「名も、立場も、曖昧なまま」
言葉が、空気に沈むように落ちていく。
「……逃れてなど」
「いる」
かぶせるように、しかし静かに。
その一言だけが、やけに重く響いた。
「でなければ、ここにはいない」
言葉が、詰まる。
喉の奥が、うまく動かない。
「……婚約は、すでに社交界で認知されています」
「確かに、社交界においては……」
わずかに首を傾げる仕草。
それだけで、距離が縮まったように感じる。
「だが、国王からの正式な承認は、まだ降りていないはずだ」
「それは……」
「当然だ」
「……君は隣国出身。そして、本来であれば、エルランドの家督を継ぐはずの者なのだから」
「そう、簡単に承認は降りない」
「君一人の意思で、完結できる話でもないからな」
言葉が正しいからこそ、反論が追いつかない。
「……エルランドの後継については、叔父が担っているはずです」
「……今は、だ」
ほんのわずか、間。
その沈黙が、妙に長く感じる。
「それは、君が死んだものと扱われていたからだ」
「だが……生きていた」
「つまりーーまだ、変えられる」
その言葉が落ちたとたん、足元が、わずかに揺れた気がした。
「本来なら君は、あの地に立つべきだ」
「家を継ぎ」
「領を治め」
「その血にふさわしい役割を果たす」
「……それが、正しいと?」
「正しいかどうかではない」
一歩、近づく。
「“そういうものだ”」
沈黙。
逃げ場のない理屈。
「……私は」
小さく、かすれる声。
「私は、あの名が……」
言い切る前に、視線が落ちる。
「重いか?」
セレスティアは、何も言わない。
「当然だ」
ノクティスはあっさりと言う。
「価値があるものほど、重い」
「……価値、ですか」
「そうだ」
「君は、価値だ」
その言葉に、はっきりとした温度はない。
ただ事実を告げるように。
「血も」
「家も」
「存在そのものも」
息が、近い。
「だからこそ、守られるべきだ」
「守られる……?」
「そうだ」
「“正しい形で”」
沈黙。
その言葉の意味が、ゆっくりと沈んでいく。
「……正しい形、とは」
ほんのわずかに、間。
「簡単だ」
さらに一歩。
もう、逃げ場はない。
「君が、然るべき場所に収まること」
「……それが」
「婚姻だ」
風が止まったような静けさ。
その一言だけが、やけに明瞭に響いた。
逃げ場のない場所に、落とされた言葉。
セレスティアは動けない。
何かを言おうとしてーー
声にならない。
「……」
「君一人で背負う必要はない」
「家も」
「領地も」
「血も」
「すべて、引き受ける」
ノクティスの声は、変わらず穏やかだった。
「……誰が」
そう、ようやく零した瞬間。
「私だ」
ノクティスが答える。
即答だった。
はっきりと。
迷いなく。
「君はただ、そこにいればいい」
「何も失わずに済む」
「何も捨てずに済む」
「すべて、守られる」
沈黙。
揺れる呼吸。
「……それが」
かすれる声。
「あなたの言う、“選択肢”……ですか」
「そうだ」
「合理的で」
「穏やかで」
「美しい解だ」
ゆっくりと、手が伸びる。
セレスティアの頬に、触れかけて――
「……なぜ」
動きが、ほんのわずかに止まる。
「なぜ、そこまで」
問い。
かすかな、震え。
ノクティスは、ほんの少しだけ目を細める。
「簡単なことだ」
その距離で。
逃げ場のない距離で。
「君が“そういう存在”だからだ」
指先が、触れる。
「価値がある」
「失われるべきではない」
顔が、ゆっくりと近づく。
「……そして」
息が触れる距離。
「私のものになるのが、最も理にかなっている」
「……それで、いいのかもしれない」
セレスティアの口から無意識に、零れた言葉。
その瞬間。
胸の奥で、何かがーー静かにほどけた。
重かったはずのものが、少しずつ、形を失っていく。
イルの名も。
自分と言う輪郭も。
背負うべき責務も。
エルランドに連なる血も、役目も。
選ばなければならない未来も。
すべてが、遠のいていく。
ーー本当は、そうしてはいけないはずなのに。
(……もう、どうでもいい)
ふと、そんな感覚がよぎる。
考えなくていい。
迷わなくていい。
選ばなくていい。
ただ、委ねればいい。
それだけでーー
すべてが、整う。
視界が、ゆるやかに霞む。
ノクティスの声だけが、はっきりと、輪郭を持って響く。
「そうだ」
優しく、肯定する声。
それだけでいい、と言われているように。
(……それで、いい)
思考が、静まっていく。
抗おうとしていたはずの何かが、どこにあったのかさえ、分からなくなる。
ーー誰かの顔が、浮かびかけて。
ほんの一瞬だけ、心が引き戻される。
けれど。
それもすぐに、沈んだ。
(……大丈夫)
心のどこかで、誰かに言い訳をするように。
(ちゃんと、守られるから)
(何も、失わないから)
ノクティスの指先が、頬に触れている。
その温度すら、心地よいと感じてしまう。
「……私の元へ」
顔が、近づく。
息が、触れる。
近すぎて、焦点すら曖昧な距離。
それでも。
暗赤の瞳だけが、はっきりと浮かび上がる。
深い。
底が見えない。
覗き込まれているのに、引きずり込まれる。
ーーその瞬間だけ、時間が引き延ばされたように。
逃げる理由も。
抗う力も。
もう、残っていない。
――唇が、重なりかける。