騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
 その日の夜。

 迎賓棟の一室には、すでに夜の静けさが満ちていた。

 湯浴みを終えたセレスティアは、鏡台の前に座っている。

 背後では、リタが長い髪を丁寧に梳(す)いていた。

 さらり、さらりと。
 櫛が髪を通る音だけが、静かな室内に響く。

 「……」

 セレスティアは、鏡の中の自分をぼんやりと見つめていた。

 先ほどから、何度も同じことを考えている。

 エルランド家のこと。
 ノクティスの言葉。

 そして――

 ベイルとの会話。

 「……リタ」

 「はい」

 「今日、ベイル様と婚姻した後のことを少し話したの」

 「まあ」

 「ベイル様は家督を継がれないから、婚姻すれば王都に別に居を構えることになるだろう、と」

 「そうですね」

 「不思議ね」

 「何がです?」

 「そうやって……ベイル様と暮らすことを考えると」

 セレスティアは、少しだけ言葉を探した。

 「……思っていたより、自然に思えるの」

 「自然、ですか?」

 「ええ」

 王都の、まだ存在しない家。

 朝になれば、ベイルがいて。

 夜になれば、帰ってくる。

 同じ食卓を囲んで。

 時には、剣を交えて。

 何でもないことで言葉を交わす。

 そんな日々。

 「……少し、楽しそうだと思った」

 自分で口にしてから、セレスティアはわずかに目を見開いた。

 ――楽しそう。

 それは、考えて出した言葉ではなかった。

 けれど。

 妙に、しっくりと胸に収まった。

 リタが鏡越しに微笑む。

 「そうですか」

 それだけだった。

 茶化さない。

 何かを決めつけることもしない。

 だからこそ、セレスティアはその先を考えた。

 「……でも」

 セレスティアが、小さく呟いた。

 「そうなるとは、まだ決まっていないのよね」

 王都の家。

 そこへ帰ってくるベイル。

 まだ何一つ、存在していない。

 ーーただ、思い描いただけの未来。
 それが現実になるとは、限らない。

 そう思った途端。

 胸の奥に、小さな寂しさが落ちた。
 
 「……」

 リタが、静かに問いかけた。

 「……セレスティア様は、エルランド伯爵になりたいのですか?」

 セレスティアは、答えられなかった。

 あまりにも単純な問いだった。

 けれど――

 今日一日。

 誰からも、そう聞かれたことはなかった気がする。

 継承権がある。
 正統な血統である。
 権利を手放す必要はない。
 領地がある。
 家名がある。
 父と母から受け継いだものがある。

 けれど。

 ――なりたいのか。

 「……分からない」

 しばらくして、セレスティアは答えた。

 そして、すぐに首を振る。

 「いいえ……」

 違う。

 「なりたいとは……思っていない」

 口にした瞬間。

 胸の奥にあったものが、ほんの少し形を持った。

 「では」

 リタが静かに続ける。

 「エルランド家がお嫌いなのですか?」

 「違うわ」

 今度は、すぐに答えられた。

 「嫌いではない」

 父がいた。
 母がいた。
 幼い自分がいた。
 庭を走った記憶も。
 父の書斎で、領地について教えられたことも。
 いずれ家を継ぐ者として、養父から学ばされたことも。

 全部。

 自分の中に残っている。

 「……大切よ」

 静かに言う。

 「今でも」

 「はい」

 「だから……」

 そこまで言って。

 セレスティアは、ようやく気づいた。

 だから、迷っていた。

 継がないと決めることが。

 父と母を。
 エルランド家で過ごした自分自身を。
 もう一度捨てることのように感じていた。

 「……私」

 声が、小さくなる。
 「継がないと言ったら……全部、捨てることになるような気がしていたのかもしれない」

 リタは、何も言わない。

 ただ静かに、続きを待っている。

 「父も、母も」
 「そこで過ごした時間も」
 「……私が、エルランド家の娘だったことも」

 鏡の中の自分を見る。

 「でも……」

 何かが引っかかった。

 本当に、そうなのだろうか。

 爵位を継がなければ。

 自分は、父と母の娘ではなくなるのか。

 領地を持たなければ。

 そこで過ごした時間まで消えるのか。

 「……違う」

 小さく。
 言葉が零れた。

 リタの目が、わずかに動く。

 「継がなくても……」

 セレスティアは、ゆっくりと顔を上げた。

 「私は、エルランド家の娘だわ」

 胸の奥で。
 何かが、静かにほどけた。

 「父と母の娘だったことも」
 「そこで育ったことも」
 「誰にも、取り上げられない」

 「……はい」

 リタが、初めて答えた。

 セレスティアは目を伏せる。

 ノクティスの言葉が蘇る。

 『誰と生きるかを選ぶことと、ご自身の権利を手放すことは――別の話です』

 正しい。

 確かに、それは別の話なのだ。

 けれど――
 もう一つ。

 別にして考えるべきものがあった。

 エルランド家を大切に思うことと。
 エルランド伯爵になること。
 それもまた――
 同じではない。

 「……そういうことだったのね」

 ぽつりと呟く。

 「セレスティア様?」

 「ううん」

 小さく首を振った。

 そして。

 もう一度、鏡の中の自分を見る。

 『だからお前はーーお前が本当に望む方を選べ』

 ベイルの言葉が、ふと胸の奥によみがえる。

 ーー自分が、本当に望む方。

 今なら。

 少しだけ、答えられる気がした。

 エルランド家を嫌っているからではない。

 過去から逃げたいからでもない。

 そしてーー
 ベイルのために、自分の望みを曲げるのでもない。

 自分が。
 これから生きたい場所。

 その先に浮かぶ。
 王都の、まだ存在しない家。

 低い声。
 まっすぐな眼差し。

 一日が終われば、そこへ帰ってくる人。

 口元には、ほんのわずかに笑みが残った。

 「私……」

 静かに息を吸う。

 「ヴェルディアへ戻りたい」

 言葉にすると。
 驚くほど、すんなりと胸に収まった。

 「エルランド家を捨てるためじゃなくて」

 一拍。

 「私が、そうしたいから」

 リタはしばらく何も言わなかった。
 やがて。

 「……では」

 最後に髪を整えながら、穏やかに言った。

 「明日は、そのようにお答えになればよろしいのではありませんか」

 セレスティアは鏡の中の自分を見つめる。
 先ほどまでの自分とは。
 ほんの少しだけ違って見えた。

 「……ええ。そうするわ」

 小さく。
 けれど、はっきりと頷いた。
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