騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
第五話「私の望む未来」
翌日。
昨日と同じ時刻。 セレスティアは、再び面談のための一室へ通されていた。
長机の上には、昨日と変わらず書類が整然と並べられている。
エルランド家の系譜。 現在の継承状況。 そして――継承権の放棄に関する書面。
向かいには、帝国側の担当官と書記官。 隣には王国側の書記官が座り、ベイルは昨日と同じく、その少し後ろに控えている。 リタもまた、後方に立っていた。
やがて、扉が開いた。
「お待たせいたしました」
ノクティスが入室する。
昨日と変わらない、穏やかな表情。
皆が席につくのを待ってから、ノクティスは静かに書面へ手を伸ばした。
「さて」
一枚目の書類へ視線を落とす。
「昨日、お伝えした件についてですが」
暗赤の瞳が上がった。
「お考えいただけましたか」
「はい」
セレスティアは答えた。
昨日とは違う。
声に迷いはなかった。
ノクティスが、わずかに目を細める。
「では、お聞かせいただけますか」
「私は――」
一度、静かに息を吸う。
「エルランド家の継承権を、放棄いたします」
室内が静まり返った。
紙を持っていた帝国側の書記官の手が、わずかに止まる。
だが、ノクティスの表情は変わらなかった。
「……それが、あなたの答えですか」
「はい」
「昨日申し上げたことを踏まえた上で?」
「考えました」
セレスティアは、まっすぐノクティスを見る。
「私は、エルランド家を嫌っているわけではありません」
ノクティスは黙っている。
「父も、母も。あの家で過ごした時間も、私にとって大切なものです」
幼い頃の記憶。
父の声。 母の手。 窓から見えた庭。 遠い昔の、けれど確かに自分の中に残っているもの。
「それを捨てたいとは思いません」
一度、言葉を切る。
「ですが――」
膝の上で重ねていた指先に、わずかに力を込める。
「エルランド家を大切に思うことと、私がエルランド伯爵として生きることは、同じではないと思いました」
ノクティスの瞳が、わずかに動く。
「……なるほど」
「私は、ヴェルディアへ戻ります」
今度は、はっきりと言った。
「ベイル殿との婚姻のために?」
昨日と同じ問い。
けれど。
セレスティアは、もう視線を逸らさなかった。
「それも、理由の一つです」
後方で、ベイルの気配がわずかに動いた。
セレスティアは気づかない。
「ですが、ベイル様がヴェルディアにいるから、ただそれに従うのではありません」
一度、息を置く。
「私自身が――あの国へ戻りたいのです」
静かな声だった。
けれど。
昨日までの迷いは、そこにはなかった。
「そこで、生きていきたいと思っています」
ノクティスは何も言わない。
暗赤の瞳が、ただセレスティアを見つめている。
やがて。
「……そうですか」
意外なほど、あっさりとした声だった。
ノクティスは書面へ視線を落とす。
「分かりました」
セレスティアが、わずかに目を見開く。
「エルランド家の継承権については、ご本人の放棄の意思が確認されたものとして、手続きを進めましょう」
帝国側の書記官が、すぐに筆を取る。
さらさらと、紙面を筆先が滑っていく。
その音を聞いて初めて、セレスティアはほんのわずかに肩の力を抜いた。
――伝えられた。
自分の意思で。
自分の言葉で。
「ありがとうございます」
小さく頭を下げる。
ノクティスは、それを静かに見ていた。
そして。
「ただ――」
その一言に、帝国側の書記官の筆が止まった。
セレスティアが顔を上げる。
「もう一つ」
声は変わらない。
「確認しておかなければならないことがあります」
「……何でしょうか」
わずかな沈黙。
暗赤の瞳が、まっすぐセレスティアを捉えた。
「“イル”についてです」
――その名。
セレスティアの指先が、わずかに強張った。
後方で、ベイルの視線が鋭さを増す。
王国側の書記官が、わずかに眉を寄せた。
「……“イル”?」
「その名に、何か?」
ノクティスはそちらへ視線を向けた。
「ええ」
短く答え、その視線を再びセレスティアへ戻す。
ノクティスは静かに答える。
「“イル”という名は、エルランド家において特別な意味を持ちます」
昨日と同じ時刻。 セレスティアは、再び面談のための一室へ通されていた。
長机の上には、昨日と変わらず書類が整然と並べられている。
エルランド家の系譜。 現在の継承状況。 そして――継承権の放棄に関する書面。
向かいには、帝国側の担当官と書記官。 隣には王国側の書記官が座り、ベイルは昨日と同じく、その少し後ろに控えている。 リタもまた、後方に立っていた。
やがて、扉が開いた。
「お待たせいたしました」
ノクティスが入室する。
昨日と変わらない、穏やかな表情。
皆が席につくのを待ってから、ノクティスは静かに書面へ手を伸ばした。
「さて」
一枚目の書類へ視線を落とす。
「昨日、お伝えした件についてですが」
暗赤の瞳が上がった。
「お考えいただけましたか」
「はい」
セレスティアは答えた。
昨日とは違う。
声に迷いはなかった。
ノクティスが、わずかに目を細める。
「では、お聞かせいただけますか」
「私は――」
一度、静かに息を吸う。
「エルランド家の継承権を、放棄いたします」
室内が静まり返った。
紙を持っていた帝国側の書記官の手が、わずかに止まる。
だが、ノクティスの表情は変わらなかった。
「……それが、あなたの答えですか」
「はい」
「昨日申し上げたことを踏まえた上で?」
「考えました」
セレスティアは、まっすぐノクティスを見る。
「私は、エルランド家を嫌っているわけではありません」
ノクティスは黙っている。
「父も、母も。あの家で過ごした時間も、私にとって大切なものです」
幼い頃の記憶。
父の声。 母の手。 窓から見えた庭。 遠い昔の、けれど確かに自分の中に残っているもの。
「それを捨てたいとは思いません」
一度、言葉を切る。
「ですが――」
膝の上で重ねていた指先に、わずかに力を込める。
「エルランド家を大切に思うことと、私がエルランド伯爵として生きることは、同じではないと思いました」
ノクティスの瞳が、わずかに動く。
「……なるほど」
「私は、ヴェルディアへ戻ります」
今度は、はっきりと言った。
「ベイル殿との婚姻のために?」
昨日と同じ問い。
けれど。
セレスティアは、もう視線を逸らさなかった。
「それも、理由の一つです」
後方で、ベイルの気配がわずかに動いた。
セレスティアは気づかない。
「ですが、ベイル様がヴェルディアにいるから、ただそれに従うのではありません」
一度、息を置く。
「私自身が――あの国へ戻りたいのです」
静かな声だった。
けれど。
昨日までの迷いは、そこにはなかった。
「そこで、生きていきたいと思っています」
ノクティスは何も言わない。
暗赤の瞳が、ただセレスティアを見つめている。
やがて。
「……そうですか」
意外なほど、あっさりとした声だった。
ノクティスは書面へ視線を落とす。
「分かりました」
セレスティアが、わずかに目を見開く。
「エルランド家の継承権については、ご本人の放棄の意思が確認されたものとして、手続きを進めましょう」
帝国側の書記官が、すぐに筆を取る。
さらさらと、紙面を筆先が滑っていく。
その音を聞いて初めて、セレスティアはほんのわずかに肩の力を抜いた。
――伝えられた。
自分の意思で。
自分の言葉で。
「ありがとうございます」
小さく頭を下げる。
ノクティスは、それを静かに見ていた。
そして。
「ただ――」
その一言に、帝国側の書記官の筆が止まった。
セレスティアが顔を上げる。
「もう一つ」
声は変わらない。
「確認しておかなければならないことがあります」
「……何でしょうか」
わずかな沈黙。
暗赤の瞳が、まっすぐセレスティアを捉えた。
「“イル”についてです」
――その名。
セレスティアの指先が、わずかに強張った。
後方で、ベイルの視線が鋭さを増す。
王国側の書記官が、わずかに眉を寄せた。
「……“イル”?」
「その名に、何か?」
ノクティスはそちらへ視線を向けた。
「ええ」
短く答え、その視線を再びセレスティアへ戻す。
ノクティスは静かに答える。
「“イル”という名は、エルランド家において特別な意味を持ちます」