騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
 解放されたノクティスが、僅かに体勢を立て直す。

 その視線は、すでにセレスティアへ向けられていた。

 その時だった。

 ーーカタ。

 長机の上で、インク壺が小さく揺れた。

 ーーカタ、カタ。

 今度は、グラスの水面に細かな波紋が広がる。

 王国側の書記官が、怪訝そうに視線を落とした。

 「……地震?」

 違う。

 セレスティアを見つめていたベイルの表情が変わった。

 灰銀の髪がーー

 ゆっくりと。

 根本から、白銀へと変わり始めていた。

 その変化は、次第に毛先へと広がっていく。

 そして。
 涙に濡れた淡い紫の瞳にも、異変が現れた。
 
 その中心から、黒が滲む。

 一滴の闇を落としたように。
 淡い紫を吞み込みながら、ゆっくりと広がっていく。

 やがてーー
 その瞳は、夜そのものを映したような深い黒へと染まっていた。

 「……これは」

 ノクティスの目が、細められる。

 見覚えのある変化だった。

 白銀の髪。 深い黒の瞳。

 かつて目にした―― “イル”の性質が強く表へ現れた時の姿。

 だが、なぜ今ーー。

 ――ぱき。

 乾いた音がした。

 ベイルの視線がセレスティアの胸元へ落ちる。

 淡い光を宿していた石が、一瞬、不規則に明滅した。

 「……?」

 もう一度。

 ――ぱき。

 今度は、はっきりと聞こえた。

 石の光が揺らぐ。
 それまで静かに灯っていた淡い輝きが、途切れるように弱まっていく。

 その変化に、ノクティスの表情がわずかに変わった。

 見覚えがある。
 かつて、自らの干渉を阻んだ魔石のネックレスーー

 その光が、今まさに失われようとしている。

 ベイルの鋼色の瞳が見開かれる。

 見間違えるはずがない。
 彼女を守るために、自分が贈ったネックレスーー

 「……まさか」

 そして。

 ――ぷつり。

 細い鎖が切れた。

 小さな石が胸元を滑り、床へ落ちる。

 硬質な音が、静まり返った室内に響いた。

 「……っ」

 ベイルが息を呑む。

 セレスティアは、それを見なかった。

 気づいてすらいないようだった。

 ただ、椅子に座ったまま、どこを見るともなく前を見つめている。

 白銀の髪だけが、微かな風もない室内で静かに揺れていた。

 「セレスティア……」

 ベイルのその声には、明らかな動揺が滲んだ。

 返事はない。

 その時。

 ――ゴ……。

 地の底から響くような音がした。

 今度は、インク壺が揺れた程度ではなかった。

 長机そのものが軋み、窓硝子が震える。

 天井から下がる灯りが、大きく揺れた。

 王国側の書記官が、堪(たま)らず椅子から立ち上がる。

 向かいでは、帝国側の担当官と書記官も顔色を変え、咄嗟(とっさ)に机へ手をついた。

 後方に控えていたリタも、揺れに足を踏み直す。

 だが。

 ノクティスだけは、その場から動かなかった。

 ――ドンッ。

 窓が大きく鳴った。

 突風だった。

 つい先ほどまで穏やかだったはずの空が、急速に翳(かげ)っていく。

 厚い雲が、まるで何かに引き寄せられるように帝都の上空へ集まり始める。

 木々が激しく揺れる。

 風が唸る。

 遠くで。

 雷鳴が響いた。

 「何が起きているんだ……?」

 帝国側の担当官が、青ざめた顔で窓の外を見る。

 誰も答えない。

 ノクティスもまた、答えを持ってはいなかった。

 ただ。

 その視線だけが、窓の外とセレスティアとの間を行き来する。

 先ほどまで浮かんでいた研究者の静かな熱が、すでにその顔から消えていた。
 
 その様子に気付いた帝国側の書記官が、声をかける。

 「アストレア公……?」

 ノクティスは応えない。

 視線は再び、セレスティアに向へ向けられていた。

 「……違う」

 低く、呟く。

 「これは……これまでの精霊化とは違う」

 その言葉に、ベイルが振り返った。

 「何?」

 ノクティスは答えない。
 いやーー答えを持っていなかった。

 白銀の髪。
 深い黒の瞳。

 外見だけなら、以前目にしたものと同じだ。

 だがーー。

 あの時、このような現象は起きなかった。

 ノクティスの顔から、すっと血の気が引いていく。

 それを見たベイルの眉が寄った。

 「どういうことだ」

 「私にも……分からない」

 「は?」

 ノクティスはセレスティアから目を離さない。

 「この状態は……記録にない」

 その言葉に。

 ベイルの目が鋭くなる。

 「お前――」

 「私が知る“イル”の発現とは違う」

 ノクティスの声が、わずかに速くなる。

 「これまで確認されているのは、人としての器を保ったまま、一時的に精霊側の性質が強く現れるものだ」

 「なら、これは何だ」

 「だからーーそれが――」

 言葉が途切れた。
 
 セレスティアが、立ち上がった。

 ゆっくりと。
 音もなく。

 「セレスティア」

 ベイルが呼ぶ。

 だが。
 黒い瞳は、彼を見ない。

 どこを見ているのかすら分からなかった。

 まるで。
 目の前の部屋ではないーー
 どこか遠い場所を見ているようだった。

 「……もう」

 唇が、かすかに動く。

 「もう……いい」

 先ほどと同じ言葉。

 けれど。

 声が違った。

 感情がない。
 ただ涙だけが、白い頬を静かに伝っている。

 「どこへ行っても」

 ぽつりと。

 「何を選んでも」

 窓の外で、雷が落ちた。

 「変わらないなら……」

 「私が――」

 「私でいる意味なんて……」

 「――ある」

 重なるように、ベイルが言った。

 「あるに決まってる」

 その瞬間。

 ――轟音。

 建物全体が、大きく揺れた。

 「きゃっ……!」

 リタが咄嗟に壁へ手をつく。
 帝国側の書記官が机にしがみつき、王国側の書記官もよろめきながら身体を支える。

 窓硝子に亀裂が走った。

 次の瞬間。

 ーーガシャン!

 窓硝子が砕けた。

 吹き荒れる風が室内へ雪崩れ込み、机上の書類が一斉に宙へ舞った。

 ノクティスが短く詠唱し、片手を上げた。

 空中に淡い光が走る。

 幾重もの術式が、ほとんど同時に展開した。

 飛び散った硝子片がーー宙で止まる。

 指先が、わずかに動く。

 次の瞬間、それらは人を避けるように軌道を変え、床へ落ちた。

 さらに光の術式が窓を覆い、吹き込んでいた風を押し返す。

 ほんの、一瞬。

 静寂が戻った。

 だが。

 ーーピシッ。

 術式の表面に、亀裂が走った。

 ノクティスの眉が動く。

 「……何だと?」

 ーーバンッ!

 光が弾けた。

 再び暴風が室内を駆け抜ける。

 「……術式ごと、破ったのか」

 ノクティスの唇から、低い声が漏れた。

 自ら構築した術だ。

 その強度を、誰よりも理解している。

 葡萄酒色の髪が、吹き込む風に乱れる。

 だが、それを気に留める余裕すらない。

 ノクティスは再び、片手を翳(かざ)した。

 その唇から、先ほどとは異なる詠唱が紡がれる。

 今度は、防ぐための術ではない。

 細い光が指先から伸び、幾何学的な術式がセレスティアの周囲へ展開していく。

 攻撃でもない。

 何かを探るように、幾重もの光が彼女の周囲を巡る。

 その中心で。

 セレスティアは、微動だにしない。

 周囲では、書類が狂ったように宙を舞っている。

 それなのにーー。

 セレスティアの周囲だけが、異様なほど静かだった。

 白銀の髪は風に煽られることなく。

 重力さえ忘れたように、ゆるやかに宙を漂っている。

 そして深い黒の瞳は、何も映さない。

 ただ。

 虚空を見つめていた。

 やがて。

 セレスティアの周囲を巡っていた光が、ふっと止まった。

 「……おかしい」

 ノクティスの呟きに、ベイルが振り返る。

 「何がだ」

 「これだけの現象が起きているのにーー彼女自身から、それに見合う力の放出がない」

 「……どういうことだ」

 ベイルが問い返す。

 だが。

 ノクティスは答えなかった。

 その視線が、セレスティアから窓の外へと移る。

 雷鳴。

 暴風。

 地の底から響く、低い轟き。

 遠くで。

 何かが崩れる音がした。

 ノクティスの表情が変わった。

 「……これは」

 何かに気付いたように、セレスティアへ視線を戻す。

 「彼女自身が力を使っているんじゃない」

 ベイルの眉が寄る。

 「……何?」

 「逆だ」

 ノクティスの声に、これまでとは違う響きが混じる。

 「精霊が――」

 そこで、一瞬。

 言葉を失う。

 そして。

 「世界の方が、彼女に応えている」

 「……どういう意味だ」

 ベイルが、理解できないというようにノクティスを見る。

 先ほど、自らが語った“イル”。

 精霊と人との境界に立つ器。

 精霊の力を借りるのではなく。

 時として、自らがその領域へ近づく者。

 だが。

 これは。

 ――近づいているのではない。

 ノクティスの喉が、わずかに動いた。

 「彼女はもう、精霊の力を借りているんじゃない」

 一度。

 言葉を切る。

 「おそらくーー彼女と精霊を隔てていた境界そのものが、失われつつある」

 「何を言っている」

 ベイルの表情が険しくなる。

 ノクティスは答えなかった。

 そして。

 「……これは」

 掠れた声が落ちる。

 「私にも、制御できない」
 
 ベイルの表情がさらに険しくなる。

 「……なら、どうすればいい」

 「……」

 「このまま見ているつもりか」

 沈黙。

 雷鳴が轟く。

 「……」

 「おい」

 それでも答えないノクティスに、ベイルの声が苛立ちを帯びる。

 ノクティスの眉間に、深い皺が刻まれた。

 「……想定外だ」

 「だから、どうする!」

 「……だから、それを今考えている!」
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