騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
第8章 逢瀬の丘
最終話「二人の未来」
帝国から戻って、しばらく。
セレスティアとベイルの婚約は、正式にヴェルディア王国から認められた。
長く宙に浮いていた二人の関係は、ようやく誰にも異を唱えられることのないものとなり。
今では、結婚の日取りについての話まで進み始めている。
そんな中。
久しぶりに何の予定も入っていない午後。
ベイルはセレスティアを、王都の外れへと連れ出していた。
王都から馬を走らせること、しばらく。
なだらかな丘を登った先には、一本の大きな木が立っている。
そこからは、遠く王都を見渡すことができた。
城壁に囲まれた街並み。
その向こうには、王宮の尖塔が小さく見える。
穏やかな風が、草原を渡っていく。
木陰に並んで腰を下ろした二人の間にも、その風が静かに吹き抜けた。
セレスティアの灰銀の髪が、さらりと揺れる。
「……綺麗ですね」
「ああ」
「こんな場所があったなんて、知りませんでした」
「俺も、来るのは久しぶりだ」
ベイルが、遠く王都へ視線を向けたまま答える。
「騎士団に入る前は、たまに来てた」
「そうだったんですか?」
「ああ。考え事をしたい時とかな」
「ベイル様にも、そういう時があったんですね」
セレスティアが隣を見る。
「?」
ベイルは、どこか不満そうな顔をしていた。
「どうかなさいましたか?」
「いや……」
「その……」
珍しく歯切れが悪い。
ベイルは少し迷ってから、口を開いた。
「前から、思ってたんだが」
「はい」
「正式に、婚約の承認も下りたことだし……」
一度、言葉を切る。
「前みたいに呼んでくれないか」
「前……ですか?」
「ああ」
ベイルが、セレスティアを見る。
「フェリスだった頃みたいに」
「……」
「“ベイル様”じゃなく――」
僅かな間。
「……ベイルと」
セレスティアが、ぱちりと瞬く。
「ですが……それでは、少し馴れ馴れしくありませんか?」
セレスティアのその言葉に、ベイルが思わず笑う。
「フェリスだった頃は、あんなに遠慮なく呼んでいたのにか?」
「そ、それは……あの頃は、令嬢ではなく男装していましたから」
セレスティアが慌てた様子で、頬を染めて、恥ずかしそうに返す。
「それに、今はもうフェリスではありませんし……」
「分かってる」
すぐに返ってきた。
「……今のセレスティアに、そう呼んでほしいんだ」
少しだけ。
ベイルの声が柔らかくなる。
「……」
セレスティアの淡紫の瞳が、僅かに揺れる。
ベイルは、再び王都へ視線を戻した。
「前から、“様”をつけられるたびに……なんだか距離がある気がしていた」
「……距離」
「ああ」
ベイルは、少し困ったように笑った。
やがて。
ベイルの笑みが、穏やかなものへ変わった。
「それに、今はーー」
「婚約者だろ」
「……」
セレスティアが、言葉を止めた。
「だったら、なおさら」
ベイルは、真っ直ぐに彼女を見る。
「俺は、“様”なんてつけずに呼んで欲しい」
「……せめて、二人きりの時くらいは」
「……」
「そう呼んでほしい」
セレスティアは、しばらく何も言わなかった。
風が吹く。
灰銀の髪が、頬にかかる。
すぐ隣に。
ベイルがいる。
以前、フェリスだった頃。
当たり前のように呼んでいた名前。
けれど。
今は。
その名前を口にするだけで、胸の奥が妙に騒がしい。
やがて。
「……ベイル」
小さな声が、零れた。
鋼色の瞳が、揺れた。
「……」
「……?」
ベイルが、僅かに笑う。
「……やっぱり、その方がいい」
セレスティアの頬が、少しだけ赤くなる。
「……そうですか?」
「ああ」
そして。
「じゃあ――」
ベイルが、少しだけ身体を彼女の方へ向けた。
「もうひとつ、いいか」
「はい?」
「二人きりの時は……」
「セレスティアじゃなくて……」
一瞬、迷うように言葉を切る。
「セレスって、呼んでもいいか?」
「……セレス?」
「ああ」
「構いませんけど……」
セレスティアは、少し考える。
「確かに……セレスティアって、長い名前ですもんね」
「それも、そうだが……」
「?」
「似てるだろ。少し」
「何とですか?」
「響きが」
「……響き?」
「ああ」
そして。
どこか懐かしむように、目を細めた。
「……フェリスに」
「……」
セレスティアが、目を見開いた。
フェリス。
かつて。
自分が生きるために選んだ名前。
男として。
剣士として。
何者にも縛られず、生きようとしていた自分。
あの時間も。
あの頃の自分も。
すべて、今の自分へと繋がっている。
それを。
ベイルは、なかったことにはしない。
セレスティアは、ゆっくりと目を伏せた。
そして。
再び顔を上げた時。
その表情には、柔らかな笑みが浮かんでいた。
「……そうですね」
「少し……似ていますね」
「ああ」
「では……」
少しだけ照れたように。
「これからは、そう呼んでください」
ベイルが笑う。
「……セレス」
呼ばれた瞬間。
胸の奥が、くすぐったくなる。
だから。
セレスティアも、呼び返した。
「……ベイル」
二人の視線が重なる。
どちらも、すぐには逸らさなかった。
風が。
二人の間を、静かに通り抜けていく。
ベイルの手が、ゆっくりと上がった。
頬に触れる。
その手のひらは、温かかった。
セレスティアは驚いたように瞬いたものの――。
逃げなかった。
むしろ。
ほんの少しだけ、その手へ頬を預ける。
ベイルの瞳が揺れた。
ゆっくりと。
その顔が近づいてくる。
セレスティアは、じっと彼を見つめた。
近づいて。
互いの吐息が触れそうな距離。
それでも。
セレスティアは、離れなかった。
やがて。
淡紫の瞳が、静かに閉じられる。
それを見て。
ベイルも、残っていた距離を埋めた。
唇が、重なる。
セレスティアとベイルの婚約は、正式にヴェルディア王国から認められた。
長く宙に浮いていた二人の関係は、ようやく誰にも異を唱えられることのないものとなり。
今では、結婚の日取りについての話まで進み始めている。
そんな中。
久しぶりに何の予定も入っていない午後。
ベイルはセレスティアを、王都の外れへと連れ出していた。
王都から馬を走らせること、しばらく。
なだらかな丘を登った先には、一本の大きな木が立っている。
そこからは、遠く王都を見渡すことができた。
城壁に囲まれた街並み。
その向こうには、王宮の尖塔が小さく見える。
穏やかな風が、草原を渡っていく。
木陰に並んで腰を下ろした二人の間にも、その風が静かに吹き抜けた。
セレスティアの灰銀の髪が、さらりと揺れる。
「……綺麗ですね」
「ああ」
「こんな場所があったなんて、知りませんでした」
「俺も、来るのは久しぶりだ」
ベイルが、遠く王都へ視線を向けたまま答える。
「騎士団に入る前は、たまに来てた」
「そうだったんですか?」
「ああ。考え事をしたい時とかな」
「ベイル様にも、そういう時があったんですね」
セレスティアが隣を見る。
「?」
ベイルは、どこか不満そうな顔をしていた。
「どうかなさいましたか?」
「いや……」
「その……」
珍しく歯切れが悪い。
ベイルは少し迷ってから、口を開いた。
「前から、思ってたんだが」
「はい」
「正式に、婚約の承認も下りたことだし……」
一度、言葉を切る。
「前みたいに呼んでくれないか」
「前……ですか?」
「ああ」
ベイルが、セレスティアを見る。
「フェリスだった頃みたいに」
「……」
「“ベイル様”じゃなく――」
僅かな間。
「……ベイルと」
セレスティアが、ぱちりと瞬く。
「ですが……それでは、少し馴れ馴れしくありませんか?」
セレスティアのその言葉に、ベイルが思わず笑う。
「フェリスだった頃は、あんなに遠慮なく呼んでいたのにか?」
「そ、それは……あの頃は、令嬢ではなく男装していましたから」
セレスティアが慌てた様子で、頬を染めて、恥ずかしそうに返す。
「それに、今はもうフェリスではありませんし……」
「分かってる」
すぐに返ってきた。
「……今のセレスティアに、そう呼んでほしいんだ」
少しだけ。
ベイルの声が柔らかくなる。
「……」
セレスティアの淡紫の瞳が、僅かに揺れる。
ベイルは、再び王都へ視線を戻した。
「前から、“様”をつけられるたびに……なんだか距離がある気がしていた」
「……距離」
「ああ」
ベイルは、少し困ったように笑った。
やがて。
ベイルの笑みが、穏やかなものへ変わった。
「それに、今はーー」
「婚約者だろ」
「……」
セレスティアが、言葉を止めた。
「だったら、なおさら」
ベイルは、真っ直ぐに彼女を見る。
「俺は、“様”なんてつけずに呼んで欲しい」
「……せめて、二人きりの時くらいは」
「……」
「そう呼んでほしい」
セレスティアは、しばらく何も言わなかった。
風が吹く。
灰銀の髪が、頬にかかる。
すぐ隣に。
ベイルがいる。
以前、フェリスだった頃。
当たり前のように呼んでいた名前。
けれど。
今は。
その名前を口にするだけで、胸の奥が妙に騒がしい。
やがて。
「……ベイル」
小さな声が、零れた。
鋼色の瞳が、揺れた。
「……」
「……?」
ベイルが、僅かに笑う。
「……やっぱり、その方がいい」
セレスティアの頬が、少しだけ赤くなる。
「……そうですか?」
「ああ」
そして。
「じゃあ――」
ベイルが、少しだけ身体を彼女の方へ向けた。
「もうひとつ、いいか」
「はい?」
「二人きりの時は……」
「セレスティアじゃなくて……」
一瞬、迷うように言葉を切る。
「セレスって、呼んでもいいか?」
「……セレス?」
「ああ」
「構いませんけど……」
セレスティアは、少し考える。
「確かに……セレスティアって、長い名前ですもんね」
「それも、そうだが……」
「?」
「似てるだろ。少し」
「何とですか?」
「響きが」
「……響き?」
「ああ」
そして。
どこか懐かしむように、目を細めた。
「……フェリスに」
「……」
セレスティアが、目を見開いた。
フェリス。
かつて。
自分が生きるために選んだ名前。
男として。
剣士として。
何者にも縛られず、生きようとしていた自分。
あの時間も。
あの頃の自分も。
すべて、今の自分へと繋がっている。
それを。
ベイルは、なかったことにはしない。
セレスティアは、ゆっくりと目を伏せた。
そして。
再び顔を上げた時。
その表情には、柔らかな笑みが浮かんでいた。
「……そうですね」
「少し……似ていますね」
「ああ」
「では……」
少しだけ照れたように。
「これからは、そう呼んでください」
ベイルが笑う。
「……セレス」
呼ばれた瞬間。
胸の奥が、くすぐったくなる。
だから。
セレスティアも、呼び返した。
「……ベイル」
二人の視線が重なる。
どちらも、すぐには逸らさなかった。
風が。
二人の間を、静かに通り抜けていく。
ベイルの手が、ゆっくりと上がった。
頬に触れる。
その手のひらは、温かかった。
セレスティアは驚いたように瞬いたものの――。
逃げなかった。
むしろ。
ほんの少しだけ、その手へ頬を預ける。
ベイルの瞳が揺れた。
ゆっくりと。
その顔が近づいてくる。
セレスティアは、じっと彼を見つめた。
近づいて。
互いの吐息が触れそうな距離。
それでも。
セレスティアは、離れなかった。
やがて。
淡紫の瞳が、静かに閉じられる。
それを見て。
ベイルも、残っていた距離を埋めた。
唇が、重なる。