騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
 フェリスはきょとんと(まばた)いでから、ふっと笑った。

 「大したことじゃないよ」

 軽い調子。

 「あの時、すぐに立ち去ったし……正直あまり顔も覚えてなかったんだよね」
 
 悪びれもない。

 だが次の瞬間。

 ふわり、と。

 春の陽ざしがほどけたような笑みが咲く。

 「でも、元気そうでよかった」

 その笑顔は、まっすぐだった。

 作り物ではない。媚びもない。見返りも求めない。

 ただ、“あなたが無事でよかった”という純度の高い感情だけ。

 その瞬間。

 ベイルの胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。

 龍を前にしても揺れなかった心が。戦場で何度も死線を越えてきた精神が。

 たった一つの笑顔に、あっけなく貫かれる。

(……っ!こ、これは、反則だろう)

 鋼色の瞳が、わずかに揺れる。

 視線を逸らそうとしてーーできない。

 笑顔が、焼きつく。

 喉が、ひどく乾く。

 昨夜、眠れなかった理由が、今になって明確になる。

 あの剣士の正体が知りたかった?龍の謎を解きたかった?

 違う。

 確かめたかったのはーー

 この笑顔が、幻ではなかったかどうかだ。

 フェリスはもう次の作業に戻っている。

 小瓶を両手で包み、静かに詠唱する。

 淡い光が瓶の中に灯る。

 朝の森を閉じ込めたような、やわらかな輝き。

 そして。

 完成した小瓶に、そっと口づける。

 祈りのような、無垢な仕草。

 その唇が、ほんの一瞬、瓶に触れる。

 それだけで。

 心臓が、強く打った。
 
 戦場で鼓動が速まるのとは違う。

 これはーー

 逃げ場のない、甘い動揺。

 (……ああ)

 そこでようやく。

 理解してしまう。
 
 自分は。
 
 ーー落ちた。

 完全に。

 理屈も、疑念も、警戒も。

 あの笑顔と、あの口づけで、全部持っていかれた。

 剣では防げない。

 盾も役に立たない。

 これが戦なら、敗北は確定だ。

 「……」

 口元を押さえる。

 笑ってしまいそうになる。
 
 再び、あれほど、思い詰めた自分が馬鹿らしく思える。
 
 こんなにも、あっさり。

 こんなにも、単純に。

 横でレオニードが小さく息を吐く。

 「……ああ」
 
 額に手を当てる。

 「これは重症だな」

 ちらりとベイルを見る。

 耳が赤い。

 鋼色の瞳がさらに深く、熱を孕み、どこか呆然としている。
 
 「昨夜の時点で怪しかったが……もう手遅れだな……」

 ベイルは否定しない。
  
 できない。

 胸の奥で、静かに認めている。

 ーー初恋だ。

 今さら、引き返せる気がしなかった。
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