騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
炉の火はすでに穏やかだった。
瓶に宿った淡い光も消え、フェリスは満足そうに頷く。
「うん。できた」
その横顔をベイルはまだ見ていた。
唇に触れた小瓶。
あの一瞬の光景が、やけに鮮明に焼きついて離れない。
ーー口づけ。
ただの儀式だ。
ただの工程だ。
そう言い聞かせながらも、胸の奥が妙に落ち着かない。
「……朝餉の支度が整いました」
静かな声が空気を整える。
シャオ・ウェンが穏やかに微笑んでいた。
翡翠色の瞳が、ほんの一瞬だけベイルを映す。
そして、穏やかな声が続いた。
「フェリスの作る魔法薬は、精霊の加護が入るので、よく効くと評判なんです」
さらりとした口調だった。
だが、その一言にベイルが反応する。
ーー精霊の加護。
「……精霊?」
思わず問い返しそうになるのを、かろうじて飲み込む。
シャオ・ウェンは静かに頷いた。
「ええ。あの子は昔から、精霊に好かれておりまして」
精霊に、愛されている。
その言葉が胸に落ちる。
……だからか。
あの時、湖で……。
脳裏にふいにあの光景がよみがえった。
夕光を受けて輝く湖面。
濡れた髪。
肌に伝う雫。
無防備な姿。
そこへ、現れたユニコーン。
めったに人の前では姿を現すはずのない聖獣が、あれほど近くに。
ーーだが、脳裏に浮かぶのはユニコーンよりも、水浴びをするフェリスの無防備な姿ばかり。
喉が、ひどく乾くーー。
(お、落ち着け)
ただの事実だ。
ただの記憶だ。
慌てて、テーブルの上にある、水の入った器を取り上げ、一気に飲み干した。
それを、レオニードが怪訝そうな目で見つめる。
「……どうした?」
何でもない、と言うつもりだった。
だが、声が一瞬遅れた。
「……いや」
視線を食卓へ向ける。
木の卓に並ぶ、質素だが温かな朝食を前に、ようやく呼吸が整うーーはずだった。
「熱いから気を付けて」
フェリスから差し出されたスープを受け取る瞬間、指先がわずかに触れた。
一瞬、目が合う。
にこり、と。
何の含みもない、まっすぐな笑顔。
ーーだめだ。
ベイルは反射的に視線を落とした。
鼓動が速い。
耳の奥まで熱を持つ。
(落ち着け……騎士だろう)
内心で叱咤するが、効果はない。
完全に……ない。
レオニードはそんな様子を、実に愉快そうに眺めている。
「お二人は、この先どちらへ向かわれるご予定で?」
シャオ・ウェンの問いに、ベイルはわずかに間を置いた。
用件は、済んだ。
あの時命を救ってくれた剣士が、フェリスだと分かった。
礼も伝えた。
本来なら、ここで去るべきだ。
「……用事は……もう済んだので、王都へ帰ろうと思います」
横から、すっと視線が刺さる。
レオニードだ。
“ほう?”と言いたげな目。
ベイルは気づかぬふりをして、器の中の湯気を見つめた。
ーー用事は済んだ。
そう、済んだはずだ。
ただ……龍のことは、まだ聞いていない。
あれは何だったのか。
疑問は山ほどある。
けれど。
目の前でフェリスは何も知らぬ顔で、パンをちぎっている。
その無垢な横顔に、理性が溶ける。
……無理だ。
龍の謎だの。使命だの。
今の自分にそんな冷静さは残っていない。
視線は勝手に彼女を追い、目が合えば動揺し、指先が触れれば心臓が跳ねる。
(何をやっているんだ、俺は……)
二十六にもなって……。
これほど心が乱されるなんてーー自分でも驚きを隠せない。
レオニードは小さく息を吐く。
戦場では微塵も揺らがぬ男が、今はスープ一杯で動揺している。
(これは…今日はもう無理だな)
完全に落ちている。
問い詰めるどころか、目も合わせられていない。
レオニードは半ば呆れ、半ば楽しむように幼馴染を見る。
当の本人は、そんな視線に気づく余裕もない。
ーー用事は済んだ。
そう言ったはずなのに。
胸の奥では、まったく別の“始まり”が、静かに息づいていた。
瓶に宿った淡い光も消え、フェリスは満足そうに頷く。
「うん。できた」
その横顔をベイルはまだ見ていた。
唇に触れた小瓶。
あの一瞬の光景が、やけに鮮明に焼きついて離れない。
ーー口づけ。
ただの儀式だ。
ただの工程だ。
そう言い聞かせながらも、胸の奥が妙に落ち着かない。
「……朝餉の支度が整いました」
静かな声が空気を整える。
シャオ・ウェンが穏やかに微笑んでいた。
翡翠色の瞳が、ほんの一瞬だけベイルを映す。
そして、穏やかな声が続いた。
「フェリスの作る魔法薬は、精霊の加護が入るので、よく効くと評判なんです」
さらりとした口調だった。
だが、その一言にベイルが反応する。
ーー精霊の加護。
「……精霊?」
思わず問い返しそうになるのを、かろうじて飲み込む。
シャオ・ウェンは静かに頷いた。
「ええ。あの子は昔から、精霊に好かれておりまして」
精霊に、愛されている。
その言葉が胸に落ちる。
……だからか。
あの時、湖で……。
脳裏にふいにあの光景がよみがえった。
夕光を受けて輝く湖面。
濡れた髪。
肌に伝う雫。
無防備な姿。
そこへ、現れたユニコーン。
めったに人の前では姿を現すはずのない聖獣が、あれほど近くに。
ーーだが、脳裏に浮かぶのはユニコーンよりも、水浴びをするフェリスの無防備な姿ばかり。
喉が、ひどく乾くーー。
(お、落ち着け)
ただの事実だ。
ただの記憶だ。
慌てて、テーブルの上にある、水の入った器を取り上げ、一気に飲み干した。
それを、レオニードが怪訝そうな目で見つめる。
「……どうした?」
何でもない、と言うつもりだった。
だが、声が一瞬遅れた。
「……いや」
視線を食卓へ向ける。
木の卓に並ぶ、質素だが温かな朝食を前に、ようやく呼吸が整うーーはずだった。
「熱いから気を付けて」
フェリスから差し出されたスープを受け取る瞬間、指先がわずかに触れた。
一瞬、目が合う。
にこり、と。
何の含みもない、まっすぐな笑顔。
ーーだめだ。
ベイルは反射的に視線を落とした。
鼓動が速い。
耳の奥まで熱を持つ。
(落ち着け……騎士だろう)
内心で叱咤するが、効果はない。
完全に……ない。
レオニードはそんな様子を、実に愉快そうに眺めている。
「お二人は、この先どちらへ向かわれるご予定で?」
シャオ・ウェンの問いに、ベイルはわずかに間を置いた。
用件は、済んだ。
あの時命を救ってくれた剣士が、フェリスだと分かった。
礼も伝えた。
本来なら、ここで去るべきだ。
「……用事は……もう済んだので、王都へ帰ろうと思います」
横から、すっと視線が刺さる。
レオニードだ。
“ほう?”と言いたげな目。
ベイルは気づかぬふりをして、器の中の湯気を見つめた。
ーー用事は済んだ。
そう、済んだはずだ。
ただ……龍のことは、まだ聞いていない。
あれは何だったのか。
疑問は山ほどある。
けれど。
目の前でフェリスは何も知らぬ顔で、パンをちぎっている。
その無垢な横顔に、理性が溶ける。
……無理だ。
龍の謎だの。使命だの。
今の自分にそんな冷静さは残っていない。
視線は勝手に彼女を追い、目が合えば動揺し、指先が触れれば心臓が跳ねる。
(何をやっているんだ、俺は……)
二十六にもなって……。
これほど心が乱されるなんてーー自分でも驚きを隠せない。
レオニードは小さく息を吐く。
戦場では微塵も揺らがぬ男が、今はスープ一杯で動揺している。
(これは…今日はもう無理だな)
完全に落ちている。
問い詰めるどころか、目も合わせられていない。
レオニードは半ば呆れ、半ば楽しむように幼馴染を見る。
当の本人は、そんな視線に気づく余裕もない。
ーー用事は済んだ。
そう言ったはずなのに。
胸の奥では、まったく別の“始まり”が、静かに息づいていた。