騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
 ひととおり整え終えたリタが、満足げに小さく息を吐いた。

 「……では、最後にご確認を」

 先ほどまでの勢いと少し違う、どこか誇らしげで、でも、優しい声。

 そっと、背中を押される。 

 自然と足が、鏡へ向いた。

 向き合うのはーー久しく、きちんと見つめてこなかった姿。

 鏡の前に立たされる。

 「……わあ」

 思わず、小さな声がこぼれた。

 淡い紫の衣は、窓から差し込む夕暮れの光を受けて、やさしく揺れている。
 胸元は控えめに整えられ、腰のラインはすっきりと美しく。
 髪は高く結い上げるのではなく、やわらかさを残すようにまとめられていた。

 そしてーー

 瞳を縁取るように淡く色を差し、長いまつ毛が静かに影を落とす。
 頬はやさしい紅が溶けるようにのせられ、唇には自然な艶。

 後ろでリタが感嘆の声をあげる。

 「フェリス様……素敵です!!」

 鏡の中の自分は、森で剣を振るっていた自分とは、まるで別人のようだった。

 こんな自分も……いたのだろうか。


 ーーいや。


 まったく知らないわけじゃない。
 ーーはずなのに……。


 指先で、そっと袖をなぞる。

 布の感触は、思っていたよりも軽くて、やさしい。

 窮屈さよりも先に、柔らかな布の軽さが伝わる。

 袖を通した瞬間、あの頃と同じ重さが胸に落ちてくるのだと、思っていた。

 息を整え、逃げ場のない空気を飲み込むような、あの感覚が蘇るのかとーー。

 「どうかされましたか?」

 リタが首を傾げる。

 「……不思議……もっと、窮屈なのかと思ってた」

 思わず、こぼれた本音だった。

 ーーそう。

 あの頃とは違う、自分の感覚に戸惑う。

 フェリスは小さく息を吐き、背筋を伸ばした。

 鏡の中の自分と、静かに目を合わせる。

 この姿の自分を、以前ほど否定しなくていいのかもしれない。

 そう思えたことが、なぜだか少しだけ、うれしかった。

 リタは、鏡越しにフェリスを見つめる。
 先ほどまでの熱量は影を潜め、代わりに瞳には、穏やかな光が宿っていた。

 「それはきっと……」

 衣の袖を、そっと整えながら、やわらかく微笑む。

 「今は、ご自分で選んでいらっしゃるからです」

 一拍置いて、静かに続ける。

 「お召し物そのものが重いのではありません。重くしてしまうのは、誰かの期待や、役目や……そういうものです」

 鏡の中で、フェリスの瞳がわずかに揺れる。

 「でも今日は、フェリス様がご自身で“着てみよう”とおっしゃった。だから軽いんです」

 押し付けでも、励ましでもない。
 ただ事実を差し出すような声だった。

 「今のフェリス様は、縛られていません」

 鏡の中で、フェリスはゆっくりと瞬きをする。

 縛られていない。

 その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。

 「……ありがとう、リタ」

 振り返ると、リタはぱっと顔を輝かせる。

 「とんでもございません!本日の主役はフェリス様ですから」

 「主役……?」

 「ええ。殿下も、きっと驚かれますよ」

 その言葉に、胸がわずかに跳ねる。

 なぜか、そこにもう一人の姿がよぎった。

 まっすぐな視線。
 静かな声。

 この姿を、あのひとはどう見るだろう。

 ふと浮かんだその思考に、頬がわずかに熱を帯びる。

 窓の外では、夕暮れがゆっくりと夜へ溶けていく。
 淡い紫の衣が、その色を映して柔らかく揺れる。


 胸の奥にあるのは、わずかな高鳴り。

 鏡の中の自分をもう一度見つめる。
 ーー新しい自分を、否定しない夜が始まろうとしていた……。
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