騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
午後の陽が石畳を照らしている。
訓練場へ足を踏み入れた瞬間、乾いた砂の匂いが鼻をかすめた。
鋼が打ち合わされる高い音。
短く鋭い号令。
揃えられた足音が、規則正しく地を打つ。
ベイルの姿に気づいた数名が、さりげなく背筋を正した。
整えられた動き。
研ぎ澄まされた空気。
ここは、甘さの入り込む余地のない場所だ。
フェリスは静かに目を細めた。
その時だった。
「ん?見慣れない顔だな」
声をかけてきたのは、第一騎士団の隊長だった。
「ベイル、お前のところの、新入りか?」
「いや、違ーー」
言いかけたその時。
ふと、訓練場の空気が変わった。
入り口の方で、数名の騎士が一斉に姿勢を正す。
ざわめきが、波のように広がった。
足音が近づく。
磨き上げられた長靴が、石の通路を軽やかに打つ。
「そう固くならずともよい。今日は公的な視察ではないのだから……」
軽やかな声が、訓練場の端から響いた。
振り向くと、そこに立っていたのはレオニード王子だった。
淡い金の髪が午後の光を受け、柔らかく輝いている。
軽装の上から羽織った外套が、歩みに合わせて静かに揺れた。
騎士たちが一斉に膝をつく。
「殿下」
レオニードは苦笑まじりに手を上げた。
「普段通りでいい。続けてくれ」
緊張していた空気が、わずかに緩む。
そしてその視線が、ゆっくりとフェリスへ向いた。
「昨夜、訓練場を見てみたいと言っていたただろう?」
フェリスは少し驚きつつも頷く。
レオニードはゆるやかに目を細める。
「見るだけでは退屈だろうと思ってな。……なに、軽い手合わせで構わん。少し刃を交えてみては?」
ベイルの眉がわずかに動く。
ーー殿下は、最初からそのつもりだったな。
“龍を退けた剣士”の実像を、その目で確かめるために。
フェリスが初日に執務室に挨拶に訪れた際、訓練場の話題を出した時点で、すでに布石は打たれていたのだろう。
いやーーあるいは、王都へ招くと提案したあの瞬間からか。
(……どこまで読んでいる)
逃げ場のない盤面を、穏やかな笑みのままさりげなく整えていく。
同じ盤上に立っているようで、実際には最初から一手遅れている。
(……癪に障るが……)
だが、それが、あいつが王子たる所以でもある。
「……よいのですか?」
フェリスのわずかな戸惑いを含んだ問いに、レオニードは柔らかく微笑む。
「もちろん。ーーその剣を握る姿、見せてもらえれば嬉しい」
やがて手合わせが始まる。
乾いた剣戟が、訓練場の空気を震わせる。
ベイルは腕を組んだまま、その動きを追った。
ーー速い。
だが、それだけではない。
刃は流れるように繋がり、足運びは静かで無駄がない。
踏み込みは浅い。だが次の瞬間にはもう死角へ滑り込んでいる。
そこで、はっとする。
思えば、彼女の剣技を、こうして正面から見たことはなかったことに気づく。
龍と遭遇した、あの時。
自分は瘴気に侵され、視界も思考も曖昧だった。
ただ、光が走り。
気がほどけ
龍が霧のように消えた。
覚えているのはそれだけだ。
だからーー
こうして鍛錬として振るわれる剣を見るのは、ほとんど初めてに近い。
改めて思う。
彼女の剣は、異質だ。
騎士団の剣は、直線的。
踏み込み、押し込み、断つ。
力で制し、間合いを奪う。
だが、フェリスは違う。
受ける。
逸らす。
絡め取るように軌跡をずらし、相手の力を空へ逃がす。
柔らかな手首の返し。
しなやかな腰の回転。
力で打ち勝つのではない。
力を、返している。
(……なるほど)
今になって理解する。
力では劣るはずの細い腕が、騎士たちと渡り合える理由。
それは、フェリスが女性としての身体を持っているからこそ、その効果が最大限に活かされていると言ってもいい。
柔らかさ。
しなやかさ。
力を直接受け止めず、逃がす身体。
(……東の剣か)
脳裏に、森でフェリスと共に暮らしているあの男の姿が浮かぶ。
静かな佇まい。
年若く見えるのに、底の見えぬ気配。
ーーシャオ・ウェン。
あの男が育てた剣だ。
そう思った瞬間、胸の奥に奇妙な感覚が生まれる。
誇りではない。
焦りでもない。
自分の知らない時間。
自分の知らない修練。
自分の知らない彼女。
目の前で舞う刃は、少年のように潔い。
けれど、その軌道の奥にあるのはーー
昨夜、燭台の光に包まれていた、あの柔らかな横顔だ。
強さと、しなやかさ。
潔さと、儚さ。
どちらも彼女だ。
そして自分は、まだそのすべてを知らない。
砂埃の中、灰銀色の髪が翻る。
一瞬の隙を突き、勝負が決まった。
「……参りました」
訓練場にどよめきが走る。
レオニードは小さく息を吐いた。
「……なるほど」
ベイルの横顔をちらりと見る。
「どうやら、お前を龍から救ったというのは、あながち誇張ではなさそうだな」
そして、わざとらしく続ける。
「……それにしても、これほどの腕前であれば、私の近衛騎士に欲しいな」
ぴくり、とベイルの表情が強張る。
「悪い冗談はおやめください」
即答だった。
レオニードはくすりと笑う。
「冗談に聞こえるか?」
さらに視線を前へ向ける。
「騎士団にも、すぐ馴染めそうじゃないか?」
見れば、手合わせを終えたフェリスの周りに騎士たちが集まっていた。
「あんた、すごいな!」
「さっきの返し、もう一度見せてくれ!」
「あの足運びは、どうやったんだ?」
無邪気な笑い。
気安い声。
肩に触れる手。
胸の奥が、ざわりと波立つ。
理屈ではない。
気づけば足が動いていた。
フェリスの手を取り、半ば強引に輪の外へと導く。
「……失礼する」
そのまま訓練場を後にする。
取り残された騎士たちはぽかんとし、レオニードは腕を組んだまま、楽し気に呟いた。
「……昨夜、腕の中に抱き入れたせいで、独占欲でも芽生えたか?」
ーー訓練場の外。
歩調の速いベイルに、フェリスが戸惑う。
「ベイル?」
振り返らない。
「……怒ってるの?」
その声に、はっと我に返る。
ようやく足が止まる。
怒っている?
違う。
これはーー
他の男たちに囲まれて、笑っている彼女を見ただけで、胸が搔き乱される衝動。
守りたい、ではない。
触れてほしくない。
あの笑顔を向けられるのは、自分だけであってほしいとーー
そんな身勝手な願いが、喉元までせり上がる。
(……俺は、何を)
あまにも大人げない感情。
それでも。
昨夜、腕の中に抱き寄せた温もりが、まだ消えない。
これは、保護欲ではないーー。
気づきかけた瞬間、ベイルは視線を逸らした。
「……すまない」
掠れた声が落ちる。
「……少し、冷静になる時間が必要だ。……申し訳ないが、今日の案内はここまでにさせてくれ」
フェリスを残し、背を向ける。
歩きながら、ようやく理解する。
もうーー
引き返せる場所にはいないのだと。
守りたいのではない。
ーー彼女を、欲している。
その事実から目を背けたまま、
ベイルは足早に去っていった。
訓練場へ足を踏み入れた瞬間、乾いた砂の匂いが鼻をかすめた。
鋼が打ち合わされる高い音。
短く鋭い号令。
揃えられた足音が、規則正しく地を打つ。
ベイルの姿に気づいた数名が、さりげなく背筋を正した。
整えられた動き。
研ぎ澄まされた空気。
ここは、甘さの入り込む余地のない場所だ。
フェリスは静かに目を細めた。
その時だった。
「ん?見慣れない顔だな」
声をかけてきたのは、第一騎士団の隊長だった。
「ベイル、お前のところの、新入りか?」
「いや、違ーー」
言いかけたその時。
ふと、訓練場の空気が変わった。
入り口の方で、数名の騎士が一斉に姿勢を正す。
ざわめきが、波のように広がった。
足音が近づく。
磨き上げられた長靴が、石の通路を軽やかに打つ。
「そう固くならずともよい。今日は公的な視察ではないのだから……」
軽やかな声が、訓練場の端から響いた。
振り向くと、そこに立っていたのはレオニード王子だった。
淡い金の髪が午後の光を受け、柔らかく輝いている。
軽装の上から羽織った外套が、歩みに合わせて静かに揺れた。
騎士たちが一斉に膝をつく。
「殿下」
レオニードは苦笑まじりに手を上げた。
「普段通りでいい。続けてくれ」
緊張していた空気が、わずかに緩む。
そしてその視線が、ゆっくりとフェリスへ向いた。
「昨夜、訓練場を見てみたいと言っていたただろう?」
フェリスは少し驚きつつも頷く。
レオニードはゆるやかに目を細める。
「見るだけでは退屈だろうと思ってな。……なに、軽い手合わせで構わん。少し刃を交えてみては?」
ベイルの眉がわずかに動く。
ーー殿下は、最初からそのつもりだったな。
“龍を退けた剣士”の実像を、その目で確かめるために。
フェリスが初日に執務室に挨拶に訪れた際、訓練場の話題を出した時点で、すでに布石は打たれていたのだろう。
いやーーあるいは、王都へ招くと提案したあの瞬間からか。
(……どこまで読んでいる)
逃げ場のない盤面を、穏やかな笑みのままさりげなく整えていく。
同じ盤上に立っているようで、実際には最初から一手遅れている。
(……癪に障るが……)
だが、それが、あいつが王子たる所以でもある。
「……よいのですか?」
フェリスのわずかな戸惑いを含んだ問いに、レオニードは柔らかく微笑む。
「もちろん。ーーその剣を握る姿、見せてもらえれば嬉しい」
やがて手合わせが始まる。
乾いた剣戟が、訓練場の空気を震わせる。
ベイルは腕を組んだまま、その動きを追った。
ーー速い。
だが、それだけではない。
刃は流れるように繋がり、足運びは静かで無駄がない。
踏み込みは浅い。だが次の瞬間にはもう死角へ滑り込んでいる。
そこで、はっとする。
思えば、彼女の剣技を、こうして正面から見たことはなかったことに気づく。
龍と遭遇した、あの時。
自分は瘴気に侵され、視界も思考も曖昧だった。
ただ、光が走り。
気がほどけ
龍が霧のように消えた。
覚えているのはそれだけだ。
だからーー
こうして鍛錬として振るわれる剣を見るのは、ほとんど初めてに近い。
改めて思う。
彼女の剣は、異質だ。
騎士団の剣は、直線的。
踏み込み、押し込み、断つ。
力で制し、間合いを奪う。
だが、フェリスは違う。
受ける。
逸らす。
絡め取るように軌跡をずらし、相手の力を空へ逃がす。
柔らかな手首の返し。
しなやかな腰の回転。
力で打ち勝つのではない。
力を、返している。
(……なるほど)
今になって理解する。
力では劣るはずの細い腕が、騎士たちと渡り合える理由。
それは、フェリスが女性としての身体を持っているからこそ、その効果が最大限に活かされていると言ってもいい。
柔らかさ。
しなやかさ。
力を直接受け止めず、逃がす身体。
(……東の剣か)
脳裏に、森でフェリスと共に暮らしているあの男の姿が浮かぶ。
静かな佇まい。
年若く見えるのに、底の見えぬ気配。
ーーシャオ・ウェン。
あの男が育てた剣だ。
そう思った瞬間、胸の奥に奇妙な感覚が生まれる。
誇りではない。
焦りでもない。
自分の知らない時間。
自分の知らない修練。
自分の知らない彼女。
目の前で舞う刃は、少年のように潔い。
けれど、その軌道の奥にあるのはーー
昨夜、燭台の光に包まれていた、あの柔らかな横顔だ。
強さと、しなやかさ。
潔さと、儚さ。
どちらも彼女だ。
そして自分は、まだそのすべてを知らない。
砂埃の中、灰銀色の髪が翻る。
一瞬の隙を突き、勝負が決まった。
「……参りました」
訓練場にどよめきが走る。
レオニードは小さく息を吐いた。
「……なるほど」
ベイルの横顔をちらりと見る。
「どうやら、お前を龍から救ったというのは、あながち誇張ではなさそうだな」
そして、わざとらしく続ける。
「……それにしても、これほどの腕前であれば、私の近衛騎士に欲しいな」
ぴくり、とベイルの表情が強張る。
「悪い冗談はおやめください」
即答だった。
レオニードはくすりと笑う。
「冗談に聞こえるか?」
さらに視線を前へ向ける。
「騎士団にも、すぐ馴染めそうじゃないか?」
見れば、手合わせを終えたフェリスの周りに騎士たちが集まっていた。
「あんた、すごいな!」
「さっきの返し、もう一度見せてくれ!」
「あの足運びは、どうやったんだ?」
無邪気な笑い。
気安い声。
肩に触れる手。
胸の奥が、ざわりと波立つ。
理屈ではない。
気づけば足が動いていた。
フェリスの手を取り、半ば強引に輪の外へと導く。
「……失礼する」
そのまま訓練場を後にする。
取り残された騎士たちはぽかんとし、レオニードは腕を組んだまま、楽し気に呟いた。
「……昨夜、腕の中に抱き入れたせいで、独占欲でも芽生えたか?」
ーー訓練場の外。
歩調の速いベイルに、フェリスが戸惑う。
「ベイル?」
振り返らない。
「……怒ってるの?」
その声に、はっと我に返る。
ようやく足が止まる。
怒っている?
違う。
これはーー
他の男たちに囲まれて、笑っている彼女を見ただけで、胸が搔き乱される衝動。
守りたい、ではない。
触れてほしくない。
あの笑顔を向けられるのは、自分だけであってほしいとーー
そんな身勝手な願いが、喉元までせり上がる。
(……俺は、何を)
あまにも大人げない感情。
それでも。
昨夜、腕の中に抱き寄せた温もりが、まだ消えない。
これは、保護欲ではないーー。
気づきかけた瞬間、ベイルは視線を逸らした。
「……すまない」
掠れた声が落ちる。
「……少し、冷静になる時間が必要だ。……申し訳ないが、今日の案内はここまでにさせてくれ」
フェリスを残し、背を向ける。
歩きながら、ようやく理解する。
もうーー
引き返せる場所にはいないのだと。
守りたいのではない。
ーー彼女を、欲している。
その事実から目を背けたまま、
ベイルは足早に去っていった。