騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
 祭りの喧騒(けんそう)が、少しずつ遠ざかっていく。

 屋台の灯りも、人々の笑い声も、背後に小さくなっていった。

 ベイルは足を止めた。

 「少しだけ待っていてくれ」

 そう言って、近くの屋台に歩み寄った。

 吊るされたガラスの瓶の中で、氷と果実を浮かべた果実水が淡く光っている。

 ほどなくして戻ってくると、ベイルは木のコップをフェリスに差し出した。

 「喉も渇いただろう」

 フェリスは一瞬だけ目を丸くする。

 「……ありがとう」
 
 コップを受け取ると、指先にひんやりとした冷たさが伝わった。

 フェリスはそっと口をつける。

 甘い果実の香りと冷たい水が喉を通った。

 そのまま二人は木立の中へ歩く。

 祭りの灯りが背後で小さくなり、空気がひんやりと静かになる。

 木々の間から差し込む夕方の光が、地面に柔らかな影を落としていた。

 ベイルは近くの石造りのベンチを示す。

 「この辺りなら落ち着ける」

 フェリスは小さく頷き、腰を下ろした。

 風が枝を揺らし、遠くから祭りの音だけがかすかに聞こえてくる。

 少しの沈黙のあと、ベイルが口を開いた。

 「……無理をさせてしまったか」

 フェリスは顔を上げる。

 「女性の装いで、祭りを回るなんて」
 
 ベイルは小さく息を吐いた。
 
 フェリスは首を振る。

 「……そんなことない……」

 しかし、言葉が続かない。

 胸の奥が、うまく整理できない。

 自分でも整理できていないものを、どう言えばいいのか分からなかった。

 ベイルの視線が静かにこちらを見ている。

 それだけで、胸の奥がまたざわつく。

 (……どうして)

 どうして、こんなに落ち着かないのか。

 ベイルの気持ちを知るたび、それを受け止めきれない自分に気付いてしまう。

 その瞬間だった。

 ぽたり。

 手の甲に、雫が落ちた。

 フェリスは一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 指先で触れる。

 濡れている。

 「……あれ」

 声に出した時、もう一粒こぼれた。

 「……フェリス?」

 ベイルの声が少し低くなる。

 フェリスは自分でも戸惑ったように瞬きをした。

 「違うの……私は……その……」

 そう言った瞬間、また涙が落ちる。

 ベイルが、驚いたように目を見開いた。

 こぼれる涙を見てーー

 次の瞬間だった。

 ベイルの手が、ふいに伸びた。

 指先が、そっとフェリスの頬に触れる。

 手袋越しの感触が、涙の跡をなぞった。

 それだけなのに、触れられた場所が妙に熱い。

 一筋の涙を拭ってから、ベイル自身がわずかに目を見開く。

 ーー触れてから、気づいたようだった。

 だが、なぜかすぐには手を離せなかった。

 ベイルは懐へ手を入れ、ハンカチを取り出した。

 今度はそれで、頬に残った涙を静かに拭う。

 そして、そのハンカチをフェリスの手に持たせた。

 フェリスは息を止めたまま、動けなかった。

 「……弱ったな。どうすればいいのか分からなくなる」

 ベイルは一度だけ深く息を吐いた。
 視線を外すように、わずかに顔を背ける。

 自分の耳が熱くなっているのを、ベイルは嫌でも自覚した。

 目の前にいるのは、いつもの剣士の姿ではない。
 涙に濡れた瞳の、可憐な令嬢……。

 そんな顔を見せられて、平静でいられるほどの余裕がない。

 フェリスは、小さく息を吐く。

 「……ごめん」

 「いや、謝るのは俺の方だ」

 「女性として見られても困らないと言われ……嬉しくてつい……」
 
 「滞在期間が限られているなか……、少し焦ってしまったようだ」

 滞在期間……。

 そうベイルから言われ、そういえばと、フェリスが気づく。

 王都の滞在も明日までーー。

 明後日の午前中には、王都を発つ。

 フェリスは、腰の巾着にそっと触れた。

 淡紫色の、ガラス石がはめ込まれたペンダントーー。

 「落ち着いたか?」

 優しく、ベイルが声をかける。

 「……私……こういうことに慣れていなくて……」

 フェリスは、視線を落としたまま呟いた。

 ベイルはわずかに目を見開いた。

 だがすぐに、その表情がやわらぐ。

 どこか納得したような気配だった。

 「慣れていないなら……これからゆっくり慣れていけばいい……一緒に付き合う。」

 その言葉に、フェリスは息を呑んだ。

 まさか、そんな風に言われるとは、思っていなかった……。

 フェリスは思わず顔を上げた。

 ベイルが柔らかく微笑む。
  
 そこには、愛しいものを見つめるかのような視線ーー

 その表情に、フェリスの胸がどくんと波を打った。

 視線を逸らそうとしても、うまくできない。

 ベイルの瞳はまっすぐだった。

 逃げ場がないほどに。

 その視線に、胸の奥がまた大きく波打つ。
 
 フェリスは、言葉を失ったまま視線を落とす。

 しばらくして、ベイルがゆっくり立ち上がった。

 「どうする?そろそろ戻るか。それとも……まだ少し、見て回るか?」

 フェリスは小さく息を整える。

 「……もう少しだけ、回りたい」

 その言葉に、ベイルはほんのわずかに目を細めた。

 それだけだったが、どこか安堵したような気配があった。

 ベイルは手を差し出す。

 フェリスはその手を見つめた。

 一瞬だけ戸惑う。

 だが、ためらいながらもその手を取った。

 指先が触れた瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。

 ベイルの手袋越しの手は、思ったよりも温かかった。

 今まで、ベイルにこうして手を取られたことは何度もある。

 けれどーーこんな感覚は、初めてだった。

 二人は並んで歩き出す。

 ベイルは、フェリスの歩みに合わせるように歩幅を緩めた。

 重ねた手はそのままだったーー

 木立の向こうで、祭りの灯りが揺れていた。
 
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