騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
第八話「剣士と令嬢の間で」
翌日の昼前。
ベイルとフェリスは、王宮内にある庭園に来ていた。
整えられた石畳の小道。
陽ざしの中で静かに揺れる花々。
王宮の庭園には、賑やかな王都のお祭りとは別の時間が流れていた。
隣を歩くベイルが、ふと口を開いた。
「これまで人の多い王都ばかり歩いたから、今日は少し静かな場所の方がいいと思ってな」
フェリスは、昨日の事を思い出す。
露店の通り。
賑やかな音楽。
人々の歓声。
そしてーー
思いがけずこぼれてしまった涙。
あの時、ベイルは何も尋ねなかった。
ただ隣に立ち、静かに見守ってくれていた。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
そして、今、こうして王宮内の庭園を選んでくれた事の気遣いーー。
フェリスはそっと微笑んだ。
「ありがとう。……とても落ち着く場所だね」
その様子を見てベイルも口元を緩める。
「森とは違うが、また違った自然の良さを感じることができると思う」
フェリスは頷きながら庭園を見渡した。
フェリスの今日の装いは、昨日の祭りの時とはまた違っていた。
淡い灰青色のドレス。
落ち着いた色合いで、華やか過ぎないが仕立ての良さがわかる上品な服。
袖口には細い銀糸の刺繍。
腰には細いリボンが結ばれ、すっきりとした線を描いている。
そして髪には、深い青の石の髪飾りーー。
フェリスは、ゆっくりと歩みを進める。
庭園の奥へ進むにつれて、空気が変わっていく。
やがて視界が開けた。
そこには、一面のバラが広がっていた。
フェリスは思わず、足を止めた。
「……なんて、綺麗」
色とりどりの花々が、陽の光を受けて咲き誇っている。
淡いもの、深い色のもの、幾重にも重なる花弁。
風が吹くたびに、やわらかな香りが揺れた。
野に咲く花とは違う。
人の手で整えられ、守られ、育てられた花。
こんなにも多くの花が、一度に咲く場所などーー
(……どれくらいぶりだろう)
胸の奥に、かすかな感情が広がる。
懐かしさに似ているのに……どこか遠い。
「気に入ったか」
隣から、低い声が落ちてくる。
フェリスは、はっとして顔を上げた。
「……うん」
素直に頷く。
「こんなに見事に咲き乱れるバラの花を見るなんて……久しぶり」
ベイルはその言葉に、わずかに眉を寄せた。
「久しぶり?」
フェリスは一瞬、言葉に詰まる。
「あ……その……」
誤魔化そうとして、視線が揺れる。
ベイルの視線が、わずかに鋭くなる。
「それはーー」
何かを問おうとした、その時。
「まぁ……ベイル様」
柔らかな声が背後から聞こえた。
二人が振り向くと、若い令嬢が立っていた。
淡いバラ色のドレス。
腰からふわりと広がる軽やかな布地に、繊細な刺繍が施されている。
陽の光を受けて、バラの花弁のような赤みを帯びた亜麻色の髪が柔らかく輝いていた。
彼女が現れた瞬間、庭園の静けさに、ひとさじの華やぎが差し込む。
令嬢は優雅に一礼する。
「このような場所でお会いできるなんて、思いませんでしたわ」
ベイルは目を細めた。
「ロザリー嬢」
そう呼ばれた令嬢は、穏やかな笑みを浮かべたまま、フェリスへ視線を向けた。
その時、ふと目が止まる。
フェリスの髪に留められた髪飾り。
銀細工の髪飾り。
中央に深い青い石が、静かに光っている。
ほんの一瞬だけ、視線が揺れた。
だがすぐに、何事もなかったかのように微笑みを戻す。
「はじめまして」
フェリスは軽く頭を下げた。
「フェリスと申します」
ロザリーは微笑みながら言った。
「ヴァレンティア侯爵家のロザリーです」
そして、ほんのわずかに首を傾げる。
「ベイル様がこうして誰かを王宮の庭園にお連れになるなんて……珍しいですわね」
穏やかな声音。
けれど、どこかに含みがある。
ロザリーは、わずかに微笑みを深めた。
「以前、お誘いした時は……あまりお時間がないとおっしゃっていたのに」
軽やかに告げられた言葉。
責める響きはない。
だが、その言葉は確かに“過去”を示していた。
フェリスの視線が、わずかに揺れる。
ベイルは特に気にした様子もなく、淡々と答えた。
「その折は都合が合わなかっただけだ」
簡潔で、角のない返答。
ロザリーは一瞬だけ言葉を止めーー
それから、柔らかく微笑んだ。
「……そうですのね」
その笑みは崩れない。
けれど、ほんのわずかにだけ。
何かが、掠めたように見えた。
ロザリーの視線が、再びフェリスへと向けられる。
「庭園のバラも、今が一番美しい時期ですの」
ベイルへ向けた言葉のようでいて、どこか含みがある。
「ご一緒できたらと思っておりましたのに……」
その一言には、かすかな名残があった。
ほんの少し間を置いてーー
「お散歩の途中でしたのに、失礼致しましたわ」
「では、わたくしはこれで」
優雅に一礼し、ロザリーはバラ園の小道を歩き去っていった。
再び、静けさが戻る。
けれどーー
先ほどまでとは、どこか違っていた。
風は同じように吹いているのに。
香りも変わらないのに。
(……さっきの)
ロザリーの言葉が、胸の奥に残っている。
理由は、うまく言葉にできない。
ただーー
ほんの少しだけ。
居場所が、揺らいだ気がした。
その背中を見送りながら、フェリスは思う。
ああいう在り方を、知らないわけではない。
けれどーー今の自分には、遠く感じた。
彼女のような人が、社交の場では“正しい”のだろうと、どこかで思う。
「……綺麗な方ですね」
正直な感想だった。
ベイルは首を傾げる。
そして、何でもないことのように言う。
「……俺は、フェリスの方が綺麗だと思うが」
フェリスは思わず目を見開いた。
「……えっ?」
思わず、間の抜けた声が漏れる。
小さく胸が波打つ。
思いがけない言葉。
まして、あんな“完成された令嬢”と比べて。
否定しようと、言葉を探す。
けれどーー
うまく、出てこない。
代わりに浮かんできたのは、ほんの僅かな、戸惑いとーー
自分でも理由のわからない、熱。
「……そんなこと、ない」
ようやく出た言葉は、ひどく弱かった。
ベイルは不思議そうにフェリスを見る。
「……慣れないなら、慣れるまで言う」
あまりにもあっさりしとした声音で言う。
フェリスの胸がどくんと波打つ。
ーーその言葉に、ふと昨日のことがよぎる。
『慣れていないなら……これからゆっくり慣れていけばいい……一緒に付き合う。』
言葉は穏やかなのに、逃げ場のない優しさで。
気づけば、隣にいられることを前提にされていて……。
胸の奥に、じわりと熱が広がっていく。
ーーあれは、ただの慰めではなかったのだと。
今になって、ようやく思い至る。
フェリスは視線を逸らし、バラの花へと目を向けた。
先ほどよりも、少しだけ色が鮮やかに見えた気がした。
風が吹き、花弁が揺れる。
胸の奥に残ったざわめきは、まだ消えないままーー
フェリスは小さく息を吐いた。
「……慣れないよ」
ぽつりと、零れる。
「……そういうの」
曖昧な言い方。
けれど、それ以上うまく言えなかった。
少しの沈黙。
やがて、フェリスはぽつりと続ける。
「そうやって、……迷いなく言われるの」
声は小さい。
責めているわけではない。
ただ、戸惑っているだけの響きだった。
ベイルはすぐに答えなかった。
その沈黙に、フェリスは少しだけ不安になる。
(変なことを言っただろうか)
そう思いかけた、その時。
「……そうか」
低く、静かな声。
「慣れないなら、そのままでいい」
変わらない調子で、そう言ってーー
ほんのわずかに、目を細める。
「そのうち、……嫌でも慣れる」
柔らかな微笑み。
けれど、その言葉にはーー逃げ道がなかった。
思わず、顔を上げる。
視線が合う。
(……逃げられない)
胸の奥が、強く打つ。
優しく、押し付けるわけでもないのに。
それでもーー
確実に、こちらへ引き寄せてくる。
どうしていいのか、わからない。
けれどーー
その戸惑いすら、ほどけていくようで。
風が吹き抜ける。
揺れる花の中で、フェリスはそっと目を伏せた。
頬に残る、わずかな熱。
ーーその時。
ふと、先ほどの令嬢の姿が脳裏をよぎる。
整えられた微笑み。迷いのない立ち居振る舞い。
(……ああいうのが、“正しい”のに)
自分は、そこから離れた。
今さら戻れるはずもない。
ベイルの隣に立つにはーー
きっと足りない。
そう、わかっているのに。
「……困る」
小さく、呟く。
その声は、どこか弱くてーー
けれど。
風が頬を撫でた時、
残っていた熱が、ふっと消えなかった。
否定したはずなのに。
胸の奥は、静かに、騒いだままだったーー
ベイルとフェリスは、王宮内にある庭園に来ていた。
整えられた石畳の小道。
陽ざしの中で静かに揺れる花々。
王宮の庭園には、賑やかな王都のお祭りとは別の時間が流れていた。
隣を歩くベイルが、ふと口を開いた。
「これまで人の多い王都ばかり歩いたから、今日は少し静かな場所の方がいいと思ってな」
フェリスは、昨日の事を思い出す。
露店の通り。
賑やかな音楽。
人々の歓声。
そしてーー
思いがけずこぼれてしまった涙。
あの時、ベイルは何も尋ねなかった。
ただ隣に立ち、静かに見守ってくれていた。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
そして、今、こうして王宮内の庭園を選んでくれた事の気遣いーー。
フェリスはそっと微笑んだ。
「ありがとう。……とても落ち着く場所だね」
その様子を見てベイルも口元を緩める。
「森とは違うが、また違った自然の良さを感じることができると思う」
フェリスは頷きながら庭園を見渡した。
フェリスの今日の装いは、昨日の祭りの時とはまた違っていた。
淡い灰青色のドレス。
落ち着いた色合いで、華やか過ぎないが仕立ての良さがわかる上品な服。
袖口には細い銀糸の刺繍。
腰には細いリボンが結ばれ、すっきりとした線を描いている。
そして髪には、深い青の石の髪飾りーー。
フェリスは、ゆっくりと歩みを進める。
庭園の奥へ進むにつれて、空気が変わっていく。
やがて視界が開けた。
そこには、一面のバラが広がっていた。
フェリスは思わず、足を止めた。
「……なんて、綺麗」
色とりどりの花々が、陽の光を受けて咲き誇っている。
淡いもの、深い色のもの、幾重にも重なる花弁。
風が吹くたびに、やわらかな香りが揺れた。
野に咲く花とは違う。
人の手で整えられ、守られ、育てられた花。
こんなにも多くの花が、一度に咲く場所などーー
(……どれくらいぶりだろう)
胸の奥に、かすかな感情が広がる。
懐かしさに似ているのに……どこか遠い。
「気に入ったか」
隣から、低い声が落ちてくる。
フェリスは、はっとして顔を上げた。
「……うん」
素直に頷く。
「こんなに見事に咲き乱れるバラの花を見るなんて……久しぶり」
ベイルはその言葉に、わずかに眉を寄せた。
「久しぶり?」
フェリスは一瞬、言葉に詰まる。
「あ……その……」
誤魔化そうとして、視線が揺れる。
ベイルの視線が、わずかに鋭くなる。
「それはーー」
何かを問おうとした、その時。
「まぁ……ベイル様」
柔らかな声が背後から聞こえた。
二人が振り向くと、若い令嬢が立っていた。
淡いバラ色のドレス。
腰からふわりと広がる軽やかな布地に、繊細な刺繍が施されている。
陽の光を受けて、バラの花弁のような赤みを帯びた亜麻色の髪が柔らかく輝いていた。
彼女が現れた瞬間、庭園の静けさに、ひとさじの華やぎが差し込む。
令嬢は優雅に一礼する。
「このような場所でお会いできるなんて、思いませんでしたわ」
ベイルは目を細めた。
「ロザリー嬢」
そう呼ばれた令嬢は、穏やかな笑みを浮かべたまま、フェリスへ視線を向けた。
その時、ふと目が止まる。
フェリスの髪に留められた髪飾り。
銀細工の髪飾り。
中央に深い青い石が、静かに光っている。
ほんの一瞬だけ、視線が揺れた。
だがすぐに、何事もなかったかのように微笑みを戻す。
「はじめまして」
フェリスは軽く頭を下げた。
「フェリスと申します」
ロザリーは微笑みながら言った。
「ヴァレンティア侯爵家のロザリーです」
そして、ほんのわずかに首を傾げる。
「ベイル様がこうして誰かを王宮の庭園にお連れになるなんて……珍しいですわね」
穏やかな声音。
けれど、どこかに含みがある。
ロザリーは、わずかに微笑みを深めた。
「以前、お誘いした時は……あまりお時間がないとおっしゃっていたのに」
軽やかに告げられた言葉。
責める響きはない。
だが、その言葉は確かに“過去”を示していた。
フェリスの視線が、わずかに揺れる。
ベイルは特に気にした様子もなく、淡々と答えた。
「その折は都合が合わなかっただけだ」
簡潔で、角のない返答。
ロザリーは一瞬だけ言葉を止めーー
それから、柔らかく微笑んだ。
「……そうですのね」
その笑みは崩れない。
けれど、ほんのわずかにだけ。
何かが、掠めたように見えた。
ロザリーの視線が、再びフェリスへと向けられる。
「庭園のバラも、今が一番美しい時期ですの」
ベイルへ向けた言葉のようでいて、どこか含みがある。
「ご一緒できたらと思っておりましたのに……」
その一言には、かすかな名残があった。
ほんの少し間を置いてーー
「お散歩の途中でしたのに、失礼致しましたわ」
「では、わたくしはこれで」
優雅に一礼し、ロザリーはバラ園の小道を歩き去っていった。
再び、静けさが戻る。
けれどーー
先ほどまでとは、どこか違っていた。
風は同じように吹いているのに。
香りも変わらないのに。
(……さっきの)
ロザリーの言葉が、胸の奥に残っている。
理由は、うまく言葉にできない。
ただーー
ほんの少しだけ。
居場所が、揺らいだ気がした。
その背中を見送りながら、フェリスは思う。
ああいう在り方を、知らないわけではない。
けれどーー今の自分には、遠く感じた。
彼女のような人が、社交の場では“正しい”のだろうと、どこかで思う。
「……綺麗な方ですね」
正直な感想だった。
ベイルは首を傾げる。
そして、何でもないことのように言う。
「……俺は、フェリスの方が綺麗だと思うが」
フェリスは思わず目を見開いた。
「……えっ?」
思わず、間の抜けた声が漏れる。
小さく胸が波打つ。
思いがけない言葉。
まして、あんな“完成された令嬢”と比べて。
否定しようと、言葉を探す。
けれどーー
うまく、出てこない。
代わりに浮かんできたのは、ほんの僅かな、戸惑いとーー
自分でも理由のわからない、熱。
「……そんなこと、ない」
ようやく出た言葉は、ひどく弱かった。
ベイルは不思議そうにフェリスを見る。
「……慣れないなら、慣れるまで言う」
あまりにもあっさりしとした声音で言う。
フェリスの胸がどくんと波打つ。
ーーその言葉に、ふと昨日のことがよぎる。
『慣れていないなら……これからゆっくり慣れていけばいい……一緒に付き合う。』
言葉は穏やかなのに、逃げ場のない優しさで。
気づけば、隣にいられることを前提にされていて……。
胸の奥に、じわりと熱が広がっていく。
ーーあれは、ただの慰めではなかったのだと。
今になって、ようやく思い至る。
フェリスは視線を逸らし、バラの花へと目を向けた。
先ほどよりも、少しだけ色が鮮やかに見えた気がした。
風が吹き、花弁が揺れる。
胸の奥に残ったざわめきは、まだ消えないままーー
フェリスは小さく息を吐いた。
「……慣れないよ」
ぽつりと、零れる。
「……そういうの」
曖昧な言い方。
けれど、それ以上うまく言えなかった。
少しの沈黙。
やがて、フェリスはぽつりと続ける。
「そうやって、……迷いなく言われるの」
声は小さい。
責めているわけではない。
ただ、戸惑っているだけの響きだった。
ベイルはすぐに答えなかった。
その沈黙に、フェリスは少しだけ不安になる。
(変なことを言っただろうか)
そう思いかけた、その時。
「……そうか」
低く、静かな声。
「慣れないなら、そのままでいい」
変わらない調子で、そう言ってーー
ほんのわずかに、目を細める。
「そのうち、……嫌でも慣れる」
柔らかな微笑み。
けれど、その言葉にはーー逃げ道がなかった。
思わず、顔を上げる。
視線が合う。
(……逃げられない)
胸の奥が、強く打つ。
優しく、押し付けるわけでもないのに。
それでもーー
確実に、こちらへ引き寄せてくる。
どうしていいのか、わからない。
けれどーー
その戸惑いすら、ほどけていくようで。
風が吹き抜ける。
揺れる花の中で、フェリスはそっと目を伏せた。
頬に残る、わずかな熱。
ーーその時。
ふと、先ほどの令嬢の姿が脳裏をよぎる。
整えられた微笑み。迷いのない立ち居振る舞い。
(……ああいうのが、“正しい”のに)
自分は、そこから離れた。
今さら戻れるはずもない。
ベイルの隣に立つにはーー
きっと足りない。
そう、わかっているのに。
「……困る」
小さく、呟く。
その声は、どこか弱くてーー
けれど。
風が頬を撫でた時、
残っていた熱が、ふっと消えなかった。
否定したはずなのに。
胸の奥は、静かに、騒いだままだったーー