騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
 晩餐を終え、王宮を出ると、夜気が静かに頬を撫でた。

 燭台の灯りから離れた分だけ、世界は少し暗く、そして広く感じられる。

 ベイルは一歩前に出て、自然な動作で腕を差し出した。

 何も言わない。
 だが、それが当然であるかのような所作だった。

 フェリスはほんの一瞬だけ躊躇(ためら)う。

 その仕草に、自分でも気づいてーー

 小さく息を整え、そっとその腕に手を添えた。

 触れた瞬間、意識が揺れる。

 けれど、離さない。

 そのまま歩き出した。

 足音だけが、石畳に小さく響く。

 やがて、離宮へと続く木立の道に入る。
 枝葉が頭上を覆い、月明かりが細くこぼれ落ちていた。

 昼間に通った時とは、まるで違う場所のようだった。

 (……静かだ)

 胸の奥に残っていたざわめきが、少しずつ沈んでいく。

 それでもーー
 完全には消えない。

 腕を通して伝わる体温が、近い。

 意識しないようにしても、どうしても感じてしまう。

 「……冷えるな」

 不意に、ベイルが低く言った。

 「そうだね」

 短く返す。

 それきり、また沈黙が落ちる。

 風が木々を揺らし、葉の擦れる音だけが、似たりの間を満たしていた。
 
 ふとーー

 「……今度は」

 ベイルが、前を見たまま口を開く。

 フェリスはわずかに顔を上げた。

 「王都へは、俺が招待する」
 
 さりげない口調。

 けれど、その言葉は静かに残る。

 「……殿下ではなくな」

 腕に添えた手に、わずかに力が入る。

 (……招待……ベイルが……)

 その響きが、胸の奥に落ちた。

 断る理由は、ないはずなのに。

 なぜかーー

 簡単に頷けない。

 「……うん」

 小さな返事。

 それ以上は続かない。

 再び沈黙。

 その静けさの中でーー

 ベイルはほんのわずかに息を吸った。

 何かを言いかけて、
 
 言葉が、喉元で止まる。

 (……今、言えば)

 この距離を、変えられる。

 引き寄せることも、
 引き止めることもーーできる。

 けれど。
 
 あの時の、涙をこぼしながら呟いたフェリスの声がよぎる。

 ーーまだ、その時ではない。

 言葉にしはしないまま、距離だけを静かに保つ。

 指先に、わずかな力がこもる。
 
 やがて、木立を抜ける。

 離宮の灯りが、静かに見えてきた。

 「……着いたな」
 
 ベイルが足を止める。

 フェリスは、そっと腕から手を離した。

 離れた瞬間、少しだけ夜気が冷たく感じる。

 「……どうもありがとう」

 結局、出てきたのはそれだけだった。

 ベイルは一瞬だけ目を細め、静かに頷く。

 「ああ」
 
 短い返事。

 それ以上は、何もない。

 ほんの一拍の沈黙。

 フェリスは小さく息を整え、背を向けかける。

 ーーその時。

 ベイルの視線が、ふと止まった。

 淡い光の中に立つフェリスの姿。

 整えられたドレス。
 静かに揺れる髪。
 その中に留められた、深い青の石。

ーー令嬢としての姿。

 初めて見た時よりも、ずっと自然で。
 けれど、どこか遠い。

 (……明日には)

 この姿も、もう見られなくなる。

 そう思った瞬間ーー

 無意識に目を逸らせなかった。

 言葉は出てこない。

 引き留める理由も、資格もないとわかっている。

 それでも。

 ただ、目に焼き付けるようにーー

 静かに見つめる。

 フェリスは、その視線に気付いたのか、ほんのわずかに振り返りかけてーー

 けれど。

 完全には振り向かないまま、足を止めることもなく。

 「……おやすみ」

 小さく、それだけを残した。

 「ああ。ゆっくり休め」

 ベイルの声は、いつもと変わらない。
 
 だがーー
 その視線だけが、しばらくその場に残った。

 フェリスの背が、離れていく。

 やがて、灯りの向こうに消える。

 それでもーー

 ベイルは、すぐには動かなかった。

 夜の静けさの中に、ただ一人立ったまま。

 残された温もりと、消えた気配の余韻だけが、そこにあった。
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