騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
第3章 囚われの公爵邸

第一話「森に落ちた影」

 王都を発ってから、数日。
 
 フェリスは、見慣れた森の中にいた。

 木々のざわめき。
 土の匂い。
 遠くで鳴く鳥の声。

 ーー帰ってきた。

 そう思うはずなのに。

 胸の奥に、わずかな違和感が残っていた。

 足を止める。

 視線の先には、小さな家。
 師匠と共に過ごしてきた場所。

 扉の前に立つ。

 一瞬だけ、指が止まる。

 それから、静かに扉を開いた。

 「師匠、ただいま」

 声が、静かな室内に満ちる。

 奥で、かすかに何かを扱う音がしていた。
 乾いた葉を触るような、やわらかな気配。

 やがて、その手が止まる。

 「……おかえり、フェリス」

 穏やかな声。

 窓から差し込む光の中、シャオ・ウェンがゆるやかに振り向く。

 手には、選り分けている途中の薬草。
 指先でそっと葉を確かめていたらしい。

 そのままフェリスを見る。

 ほんの一瞬。

 「……少し、空気が変わりましたね」

 やわらかな声音。

 問いかけるでもなく、確かめるでもない。
 ただ、感じたことをそのまま口にしたような響き。

 フェリスは、わずかに目を瞬かせた。

 「……そう、かな」

 小さく返す。

 シャオ・ウェンは、ふっと微笑んだ。

 「ええ」
 
 それ以上は何も言わない。
 
 手元の薬草へと視線を戻し、また静かに選り分けいく。

 「良い変化かどうかは……今は決めなくていいでしょう」

 穏やかに続ける。

 「そのうち、自分で分かります」

 淡く、余白を残す言い方。

 フェリスは、少しだけ視線を伏せた。

 胸の奥にあるものは、まだ形にならない。

 けれどーー

 否定する気には、ならなかった。

 (……空気が、変わった)

 その言葉を、そっと胸の内で繰り返す。

 シャオ・ウェンは、それ以上踏み込まない。

 ただ、いつも通りの手つきで薬草を選り分け、静かな時間をそこに戻す。

 フェリスは、小さく息を吐いた。

 それから、ゆっくりと家の中へ足を踏み入れる。

 床の軋む音。

 かすかに残る、木と茶葉の香り。

 何も変わっていない。

 それなのにーー

 どこか、少しだけ遠く感じた。

 フェリスは外套を外し、いつもの場所にかける。
 腰の剣を解き、壁際に立てかけた。

 手を止める。

 そのまま、指先がわずかに迷う。

 外套の内側。

 触れれば、すぐにわかる場所にある、小さな感触。

 ーー持ち帰ったもの。

 深い青の石が入った、細い銀の髪飾り。
 
 一瞬だけ取り出しかけて。

 やめる。

 代わりに、ゆっくりと息を吐く。

 「……手伝うこと、ある?」

 何気ない声で、そう尋ねる。

 シャオ・ウェンは手元の薬草をいくつか取り分けながら、やわらかく首を振った。

 「いいえ。今日はもう、これで終わりです」

 そして、少しだけ視線を和らげる。

 「旅の疲れもあるでしょう。ゆっくり休んでいなさい」

 フェリスは、ほんのわずかに迷ってから、頷いた。

 「……ありがとう」

 部屋の奥へと歩いていく。
 
 見慣れた寝台。
 
 窓から差し込む、柔らかな光。

 そのまま、腰を下ろす。

 静けさが、ゆっくりと戻ってくる。

 けれどーー

 胸の奥だけが、まだ落ち着かない。

 目を閉じる。
 
 浮かぶのは、森ではなく。

 石畳の道。
 差し込む光。
 そしてーー

 低く、穏やかな声。

 思い出した瞬間、わずかに息が浅くなる。

 フェリスは、そっと目を開けた。

 意識が、無意識のうちに外套の方へ向かう。

 外套の内側にある、小さな髪飾り。

 小さく息を吐く。

 それ以上、考えないようにする。

 ーーそう決める。

 ゆっくりと、身体を横たえた。

 森の音が、遠くで揺れている。

 変わらないはずの場所で。

 ただ一つ、胸の奥に残った王都でのた想いを抱えたまま、

 フェリスは静かに目を閉じた。
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