騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした

 森は、いつもと変わらぬ静けさに沈んでいた。

 風が葉を揺らし、遠くで鳥が鳴く。
 その均衡の中にーーわずかな歪みが混じる。

 「……」

 フェリスの足が止まる。

 空気が重い。

 ……龍の気配。

 だが、それは何か違う感じもする。

 あまりにも“整いすぎている”。

 「……妙だ」

 低く、呟く。

 次の瞬間、地を蹴った。

 木々の間を抜ける。

 風を裂くように進みながらも、意識は鋭く周辺を探る。

 (でも、もし、本当に龍ならーー)

 確かめる必要がある。

 だが。

 気配は、唐突に消えた。

 「……っ」

 止まる。

 静寂。

 森が、元の姿に戻る。

 その瞬間。

 足元に、淡い光が走った。

 「ーー!」

 反応するよりも早く、幾何学的な模様が地面に展開する。

 円。線。重なり合う符。

 魔法陣。

 「捕まえた」

 背後から落ちる声。

 同時に、光が一気に立ち上がった。

 空間そのものが絡みつく。

 見えない鎖が、四肢を縛る。

 「……っ!」

 身体が強制的に止められる。

 力を込める。
 だがーー抜けない。

 剣に手を伸ばす。

 その瞬間、指先から力が抜けた。

 「……なに……これ……」

 感覚が、鈍い。

 内側に流れていたはずの力が、霧散していく。

 精霊と繋がる回路もーー閉じられている。

 術も使えない。

 「無駄だ。封じたからな」
 
 静かな声。
 
 振り向く。

 そこに、男が立っていた。

 いつからそこにいたのか分からない。

 気配は希薄で、音もない。

 長い外套が、わずかに揺れる。

 髪は、熟れ過ぎた果実のような、深い、葡萄酒色。

 整いすぎた顔立ち。

 その均衡は美しいはずなのに、どこか現実味を欠いている。

 感情を感じさせない黒い瞳が、静かにこちらを見下ろしている。

 だが、視線が絡んだ瞬間。

 その奥で、ゆっくりと色が滲んだ。

 ーー赤。

 鮮やかではない。

 むしろ沈んでいる。

 血を溶かし込んだような。重く、濃い色。

 じわりと、覗き込まれているような感覚。

 「ようやく見つけた」

 低く、静かな声。

 耳に触れた瞬間、わずかに体温を奪うような響き。

 一歩、近づく。

 その動きに合わせて、空気がわずかに沈む。

 その場の支配権が、音もなく塗り替えられていくようだった。

 その足取りには一切の迷いがない。

 フェリスが、目を見開く。

 「……アストレア公」

 名を呼ばれ、男ーーノクティス・アストレアはわずかに目を細めた。

 愉しむように。

 「覚えてくれていたとはーー光栄だ」
 
 ノクティスの視線が、ゆっくりとフェリスの輪郭をなぞる。
 値踏みするように、上から下へと滑りーーやがて、片眉がわずかに上がった。

 「それにしても、随分と勇ましくなられたものだ……セレスティア嬢」

 ーーその名。

 フェリスの胸の奥が、わずかに軋む。

 (……捨てたはずの、過去の名前)
 
 フェリスの目が細くなる。

 「……龍の気配は」

 「餌だ」
 
 あっさりと返る。

 「龍を顕現させるには、少々手間がかかる」

 ゆっくりと距離を詰めながら。
 
 「だがーー君を呼ぶだけなら、気配だけで十分だ」

 ほんのわずかに、口元が歪む。

 「……最初から、これが狙い?」

 「当然だ」

 「どうして、私が生きていると?」
 
 フェリスの問いに、ノクティスはわずかに目を細める。

 「龍だよ」

 わずかに間を置いて、ノクティスは続ける。
 
 「君が消しただろう……いや、正確には、還したと言うべきか」

 フェリスの脳裏に、ベイルを助けた時に遭遇した龍の記憶が蘇る。

 「龍を顕現させたのは、私だからな」
 
 視線が、静かにフェリスを捉える。

 「もっとも、あれは実験段階ではあったんだがーーあのように干渉されるとは、想定していなかった」

 ほんのわずか、口元が歪む。

 「魔術では届かない領域……」

 低く、静かな声。

 「それに干渉できる者となると……候補は限られてくる」

 視線が、逃さないように絡む。

 「精霊と繋がりを持つことができる者……」

 沈黙が落ちる。
 
 ふ、と。
 喉の奥で、かすかな笑いが漏れる。

 「そして、貴女(あなた)の血は……その系譜だ」

 「……っ」

 拘束が、さらに強まる。
 
 その時。

 風が裂けた。

 鋭い一閃が、空間を断ち切る。

 魔法陣の一部が歪む。

 「……少々、時間を使い過ぎたな」

 ノクティスがわずかに視線を上げる。

 木立の奥から現れたのは、シャオ・ウェンだった。

 翡翠の瞳が、真っ直ぐにノクティスを射抜く。

 次の瞬間、踏み込む。

 一歩で間合いを詰める。
 
 刃が閃く。

 ノクティスは半歩だけ引いた。

 それでだけで、軌道を外す。

 同時に、指先がわずかに動く。

 見えない糸を引くかのように。

 空間が歪む。
 
 刃が、止められる。

 「……なるほど」

 シャオ・ウェンの声が落ちる。

 「術で空間を縛っているのか」

 「理解が早いな」

 ノクティスは動じない。

 「だがーー」

 再び、踏み込む。

 今度は連撃。

 しなやかな剣が、魔術の隙間を縫う。

 一瞬、ノクティスの外套が裂けた。

 「ここで時間を使うつもりはない」

 その瞬間。
 
 足元に、別の魔法陣が展開した。

 転移陣。

 「……!」

 空間が歪む。
 
 光が、視界を覆う。

 「フェリス!」

 シャオ・ウェンの声。

 だが、届かない。

 手を伸ばそうとする。
 
 指先が、空を切る。

 次の瞬間、全てが消えた。

 静寂。

 森に残ったのは、歪んだ魔術の残滓(ざんし)だけ。

 シャオ・ウェンは、その場に立ち尽くす。

 わずかに、息を吐いた。

 そして、ゆっくりと目を閉じる。

 「……遅かったか」

 かすかに、息が落ちる。

 だがその声に、苛立ちはない。

 ただ、静かな受容だけがあった。

 ーー閉じていた目を開く。

 翡翠の瞳に、迷いはない。

 「……彼に、話す必要があるな」

 風が、強く吹き抜けた。
 
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