騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
 屋敷を出たのは、夜が明けて間もなくのことだった。

 有無を言わせぬ形で、フェリスはノクティスの手の者に伴われた。

 ノクティスの屋敷では、令嬢らしく裾の長い衣を纏っているが、今は動きやすさを優先した細身のパンツに、簡素な薄手の上着に外套。
 
 髪は、森で暮らしていた頃と同じく、高い位置で一つに束ねられている。
 
 向かった先が森だとわかったのは、馬車を降りた後。

 人の手が入っているはずの帝都近郊の森。

 だが一歩足を踏み入れた瞬間、その違和感は明確なものへと変わる。

 意図的に整えられた“何か”が、そこにある。

 そして。

 「ここだ」

 ノクティスの声が、背後から落ちた。

 促されるまま、フェリスは森の奥へと歩みを進める。

 森は、静かすぎた。

 葉も揺れない。
 音だけが、どこか遠くへ吸われていく。

 やがてーー

 木々が不自然に途切れた。

 ぽっかりと、円形に開けた空間。

 下草すらまばらで、踏み荒らされたように土が露出している。

 
 そしてその中心。

 わずかに脈打つ光が、地の底から滲んでいた。

 規則的な明滅。

 呼吸のような、一定のリズム。

 (……魔石)

 埋められている。

 視線を巡らせれば、それは一つではない。

 地中に、円を描くように配置されているのが分かる。

 その瞬間、フェリスは理解した。

 ーーここの空間は気の流れが歪んでいる。

 目には見えないが、確かに“滞り”を感じる。

「……準備はできたようだな」

 低く、感心するような声。
 
 振り返るまでもなく、ノクティスだ。

 その周囲には、魔術師たちが控えている。
 淡い光の幕が幾重にも重なり、空間を区切っていた。

 防護魔術。
 
 視線だけが、わずかに動く。

 自分の両手首。

 嵌められている腕輪。

 ノクティスが、一歩、距離を詰めた。
 
 手を伸ばす。

 指先が、腕輪のすぐ手前で止まる。

 触れているのか、いないのかーー

 判別できない、わずかな間。

 そのまま、指先が静かに動いた。

 なぞるように。

 あるいは、何かを解くように。

 その瞬間ーー

 かちり、と。

 乾いた音がした。

 腕輪が、外れる。

 まるで、そこにあった“成立”だけが解けたように。

 
 ーー繋がる。

 空気の奥にあったものが、流れ込んでくる。
 
 遮断されていた感覚が、一気に戻る。

 
 ノクティスが、静かに口を開く。


 「……君はわかっているだろうが、外したからといって、自由になったわけではない」

 わずかな間。

 「これは、実験のためだ」

 淡々とした声。

 「……実験?」

 フェリスが眉を寄せた。

 「そう……君がどのように、龍を消したのかを知る……ね」

 「だから、精霊と繋がれる状態でなければ、意味がない」

 視線が、フェリスの手元に落ちる。

 「それから……余計な動きは、しない方がいい。逃げようとしても無駄な事だ。」

 わずかに。

 フェリスの呼吸が浅くなる。

 だがーー
 
 すぐに、何事もなかったかのように整えられた。

 背後から、控えていた魔術師がノクティスに剣を差し出す。

 ノクティスはそれを受け取りーー
 
 無造作に、フェリスへと向けた。

 「……これも、龍を消す際には必要かな?」 

 差し出された剣へと、フェリスの視線が落ちる。

 表情は変わらない。

 ただ、手を伸ばし差し出された剣を受け取った。

 そこで、ふと。

 ノクティスの口元が、わずかに緩んだ。

 愉しむようにーー

 それは、抑えきれない興味が滲んだような笑みだった。

 「では、始めよう」

 ノクティスが控えている魔術師たちに向かって、片手を上げる。

 応じるように、地中の魔石が一斉に光を帯びた。

 低い振動。

 次の瞬間、空気が濁る。

 同時にーー

 控えていた魔術師たちの周囲に、淡い光が立ち上がった。

 幾重にも重なる防護の術式。

 薄い膜のように空間を覆い、外界と切り離す。

 ノクティスの周囲にもまた、目に見えぬ層が静かに展開されている。

 そしてーー

 瘴気が、湧きあがった。

 「……っ」

 魔術師の一人が息を詰める。

 防護の膜が軋み、淡く揺らぐ。

 視界が、わずかに歪む。
 重い。
 肺に沈むような圧。

 だが。

 フェリスは、ただ立っていた。

 瘴気は、確かに触れている。
 肌を撫で、衣を揺らし、息の中にまで入り込んでくる。

 本来なら、焼けるような痛みとともに侵されるはずのそれがーー

 何も、起こらない。

 侵してこない。

 まるで、触れているだけで、届いていないかのように。

 その中心で、フェリスは静かに息をする。

 やがてーー

 空間が、裂けた。

 黒く、歪んだ裂け目から、長大な影が引きずり出される。

 鱗に覆われた、長大な体躯。

 だが、その輪郭は安定していない。

 ところどころが崩れ、存在が揺らいでいる。

 頭部が現れる。

 濁った眼が、ゆっくりと開いた。

 それは、龍だった。

 だがーーどこか、壊れている。

 「ーーこれが……顕現」

 誰かが呟く。

 龍が、咆哮した。

 その瞬間。

 空気が叩きつけられる。

 魔術師たちの防護の膜が、わずかに軋んだ。

 押し潰されるような圧に、足元が揺らぐ。

 魔術師たちの呼吸が、揃って浅くなる。

 誰も、声をあげない。

 フェリスの中で、何かが切り替わった。

 ーー音もなく。

 呼吸が、ひとつ落ちる。

 ふわりと、髪が揺れる。

 灰銀だった色が、光を帯びるように変わっていく。
 白銀へ。

 光を宿す色。
 
 同時に。
 
 淡い紫の瞳は、静かに色を失いーー
 やがて、底の見えない漆黒へと沈んだ。

 全てを呑みこむ影。

 光と影。

 相反するはずのそれが、同時にそこに在る。

 拮抗し、均衡しーー

 ただ、在る。

 その姿は、人でありながらーーひとつの“理”を体現していた。
 
 満ちていた瘴気が、わずかに退いた。

 いやーー

 拒まれている。

 フェリスを中心に、世界が静まっていく。

 そこに立っているのは、もうーー

 先ほどまでの少女ではなかった。

 「……」

 誰かが息を呑む。

 ノクティスの目が見開く。

 「……これは……」

 低い声。

 「……美しい……」

 どこか興奮めいた声音。
 その呼吸は、わずかに浅い。

 一歩も引かず、ただ、見ている。

 「さあ」
 
 「見せてもらおうか」

 フェリスは、剣をわずかに持ち上げる。
 
 そして、その刃に、指先を滑らせた。

 なぞる、というほどの動きでもない。

 かすかな接触。

 ーーその瞬間。
 
 刃の縁に、淡い光が走る。

 何かが、剣に宿るーーように見えた。
 
 音は、ほとんどない。

 一歩、踏み出す。

 龍が動くより、早く。

 ーー踏み込む。

 一閃。
 
 刃が空気を裂いた瞬間、淡い光が走る。

 瘴気が、弾けた。

 龍の鱗に刻まれるのは、傷ではない。

 紋。

 円の一部。

 乱れた流れを。
 
 歪みを、あるべき形へと導くように。

 間を置かず、二太刀、三太刀。

 流れるような剣筋が、空間に線を描く。

 一太刀ごとに、光が軌跡を残す。

 線は、やがて円を描き始める。

 フェリスの視線は龍へと向けられている。

 だがーー

 見ているのは、その姿ではない。

 鱗でも、牙でもない。

 その奥。

 歪んだ流れ。

 乱れ、淀み、絡み合った“何か”。

 崩れかけた均衡。

 本来あるべき形から、逸れた“在り方”。

 それが、龍という形を保っているだけ。

 フェリスは、それを見ていた。

 ただ、幼い頃から、そう見えていた。

 風の流れも、光の揺らぎも。

 そしてーー

 目に見えないはずの“気配”さえも。

 誰かに教わったものではない。

 見えているものを、見えているままに受け取っているだけ。

 そして同時に。

 どこへ還すべきかを、理解している。

 光の軌跡が、重なりーー

 閉じる。

 円が、完成した。

 その瞬間。

 均衡が、定まる。

 刻まれた紋が一斉に輝き、龍の体を縛る。

 咆哮が、途中で止まった。

 瘴気が、引く。

 吸い上げられるように、消えていく。

 巨体が、光に包まれる。

 ほどける。

 霧のように。

 ーー還る。

 外れていたものが、元の流れへと戻っていく。

 残ったのは、静寂と、澄んだ空気。

 フェリスは剣を振り、静かに鞘へ納めた。

 そしてーー

 わずかに遅れてーー

 地の奥から、軋むような音が響く。

 「……?」

 魔術師の一人が顔を上げる。

 次の瞬間。

 地中に埋められていた魔石が、淡く光を放った。

 いやーー

 光が、揺らいでいる。

 「何だ……?」

 ノクティスの声が、低く落ちる。

 魔石の光が、不規則に明滅する。

 まるで、支えを失ったように。

 ひびが入る。
 
 微かな音。

 一つ。

 また一つ。

 ーーぱきり。

 乾いた音と共に、魔石が崩れた。

 粉ではない。

 光そのものが、ほどけるように消えていく。

 痕跡すら、残さず。

 「……消えた?」

 誰かが呟く。

 信じられないものを見る目。

 地中の気配が、急速に薄れていく。

 先ほどまで確かに存在していた“源”が、完全に断たれていた。

 フェリスは、何も言わない。

 ただ静かに立っている。

 その背に、視線が刺さる。

 ノクティスだ。

 しばしの沈黙の後。

 彼は、ゆっくりと口を開いた。

 「……やはり……核ごと、消すのか」

 一歩、踏み出す。

 「……興味深い」
 
 低い声。

 瘴気の残滓が、まだ薄く残っている。

 「あれはーー斬っているのではないな」
 
 間。

 わずかに笑う。

 「描いているのか、陣を」

 フェリスは振り返らない。

 その沈黙すら、答えのようだった。

 ノクティスはそれ以上追及しない。

 ただーー

 わずかに口元を歪める。

 理解したのではない。

 だが、確信している。

 森は、再び静まり返る。

 「そして……その姿……これが、イルの名を継ぐ者の力」

 その声は、抑えられている。

 だがーー

 わずかに乱れた呼吸と、上ずる音が、隠しきれないものを滲ませていた。
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