騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
 屋敷へ戻されたフェリスは、そのまま湯殿へと通された。
 
 湯気が、静かに立ち上っている。

 用意された湯は、すでに適温だった。

 「どうぞ」

 侍女の声に促され、フェリスは衣を解いた。

 手伝う動きに、無駄がない。

 湯に身を沈める。

 静かに息を吐く。

 疲労を奪うには、ちょうどいい温度。

 湯の温もりが、体温を(なら)していく。

 ただ、それだけを受け入れる。

 やがて、湯から上がると、すぐに衣が差し出された。

 柔らかな布地。

 質の良い、用意された装い。

 「こちらを」

 差し出す手は、丁寧だ。

 フェリスは、自ら袖を通す。

 整えられた衣が、肌に馴染む。

 鏡に映る自分の髪は、すでに元の色に戻っていた。

 瞳もまた、いつものそれだ。

 (……龍は、還した)

 では。

 (あれを、顕現させてーー何をするつもりなのだろう)

 ノクティスの横顔が、脳裏に浮かぶ。

 静かで、理知的で。
 
 だからこそ、底が見えない。

 「朝食のご用意が整っております」

 控えめな声が、再び告げる。

 頷き、歩き出す。

 廊下は静かだった。

 人の気配はある。

 だが、どれもが一歩引いたまま、近づこうとはしない。

 視線が合う前に、逸らされる。

 その繰り返し。

 足音だけが、やけに明瞭に響く。

 案内された先の部屋は、明るかった。

 大きな窓から、朝の光が差し込んでいる。

 すでに、屋敷は日常の中にあった。

 卓上には、整えられた食事。

 温かい湯気が、穏やかに揺れている。

 「おはよう、セレスティア」

 声は、背後からだった。

 ーーあまりにも、普段通りの声音だった。

 まるで、先ほどの出来事など存在しなかったかのように。

 「体調に問題はないかな」

 「……問題ありません」

 間を置かずに答える。

 ノクティスはわずかに頷いた。

 「そうか」

 「あれだけの現象の後だ。多少の負荷は想定していたが」

 ーー声音に、心配の色はない。
 
 ただ、結果を確認しているだけだ。

 席に着くよう促される。

 フェリスは従った。

 食事が運ばれる。

 いや、正確にはーーすでに運ばれていたものに、最後の仕上げが施される。

 「早朝の件だが」

 不意に、ノクティスが切り出す。

 手元の動きが、わずかに止まる。

 「実に興味深い現象だった」

 淡々とした口調。

 評価の響き。

 「あれは、魔術ではない」

 「術式も、媒介も、理の積み上げも存在しない」

 静かな断言。

 「にも関わらず、結果だけが成立している」

 そこで初めて、ノクティスはフェリスを見た。

 「極めて特異だ」

 ーー人を見る目ではなかった。

 フェリスは、フォークを置いた。

 「……何を、お望みですか」

 単刀直入に問う。

 一瞬の沈黙。

 だが、ノクティスはすぐに微笑んだ。

 「そう警戒しなくていい」

 柔らかい声。

 「ただ、知りたいだけだ」

 「今は、髪の色も、瞳の色も通常の色に戻っているようだが……」

 「あの龍を還した際に、見せた髪の色と瞳の色……あの姿になるのはどうやら一時的なものなのだな」

 ノクティスは、わずかに観察するように目を細めた。

 「あの状態になるのは、どういった時だ」

 「……わかりません……ただ、今回の龍のような……本来の姿から外れてしまったものと遭遇した時にそうなります」

 フェリスは、言葉を選びながら答える。

 「わからない。……では、自発的な発言ではないのか?」

 「……体が勝手に反応するという感じです」

 わずかに視線を落とす。

 「……本来の姿から外れたもの、か」

 低く、言葉をなぞるように繰り返す。

 「面白い言い方だな」

 「本来は、龍は人の目には見えない状態で存在していますから」

 「あれは……歪められたせいで、目に見える形に顕現させられたもの」
 
 「本来の姿ではありません」

 一度、言い切る。

 ノクティスの視線が、わずかに深くなる。

 「なぜ、あのような龍を顕現させるのですか?」

 問いは、低く落ちた。

 ノクティスは、すぐには答えなかった。

 ナイフを置き、指先を軽く拭う。

 その所作すら、乱れがない。

 「龍は……偶然の産物だ」
 
 ようやく、口を開く。

 「はじめから、顕現させるつもりだったわけではない」

 「魔石を使った実験を色々とやっていてね。その過程の中で思いがけず、あれが発現したのだよ」

 フォークを軽く持ち上げる。

 「条件を整えれば、同様の現象は引き起こせる可能性が高い」

 「君が、ヴェルディア王国の森で遭遇した龍は、検証実験で行ったものだ」
  
 「なぜ、隣国の森でそんなことを……」
 
 フェリスの問いは、静かだった。
 だが、明確に踏み込んでいる。

 ノクティスは、わずかに手を止めた。

 考える間ではない。
 言葉を選ぶ間でもない。
 ただーー順序を整えているだけの沈黙。

 「干渉が少ないからだ」

 あっさりと、答えが落ちる。

 フェリスは、わずかに眉を寄せた。

 ノクティスは続ける。

 「国内で行えば、余計な制約が増える」
 「記録は残り、監視が入り、結果に手が加わる」

 ナイフの先が、皿に軽く触れる。

 かすかな音。

 「純粋な状態での観測が難しくなる」
 
 視線が、フェリスへ向く。

 「だが、外であれば話は別だ」

 一拍。

 「責任の所在も、曖昧になる」

 あまりにも、淡々とした言い方だった。

 フェリスは、言葉を選ぶ。

 「……それは」

 咎めるべきなのか。
 問い直すべきなのか。
 一瞬、判断が揺れる。

 ノクティスは、その間を気にも留めずに続けた。

 「それに、あの森は都合がよかった」

 「都合、ですか」

 「境界が薄い」

 短い説明。

 「歪みが発生しやすい環境だった」

 フォークを取り、静かに口へ運ぶ。

 「現象の発現条件としては、理想的だ」

 ーー迷いがない。

 「加えて、思いがけず……その龍を跡形もなく消し去った者が現れた」
 
 ノクティスは、ほんのわずかに笑った。

 「君だ」

 フェリスは、何も言わない。

 「はじめは、まさかと思ったが……」
 
 「天は私に、味方したようだ」

 視線が、静かにフェリスを捉える。

 「一度失ったはずの君が私の元に来るとは……運命なのかもしれないな」
 
 運命ーー。

 その言葉は、静かに落ちた。

 ノクティスの元へ行くことを拒み、一度は逃れたはずだった。

 それが今、ここにいる。

 (……確かに)

 そういう意味では。

 そう呼ぶことも、できるのかもしれない。

 逃れても、結局ここにいるのなら。
 
 抗うことに、意味はーー

 そこまで思考が沈みかけて、

 ふと、息が止まる。

 (違う)

 わずかに、首を振る。
 
 ……ノクティスに捕まった際に助けに駆け付けた師匠。

 師匠の事だから、何かしら救出する術を考えているかもしれない……。

 (……まだ、諦めるには早い)

 この状況下でも、そう思えた。

 沈みかけていたものが、かろうじて踏みとどまる。

 フェリスは、ゆっくりと息を吐いた。

 そして、何も答えず、食事を続けた。
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