騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
第四話「偽りの婚約者」
ーー数刻後。
屋敷は、変わらず静寂に包まれていた。
控えめなノック。
「失礼致します」
執事が、入る。
ノクティスは、書類から顔を上げない。
「来訪者が」
短い報告。
「……誰だ」
「……隣国ヴェルディア王国のベイル・アーデン卿にございます」
ーー沈黙。
ペン先が、止まった。
「ヴェルディア王国……」
予想していた名ではない。
追ってくるなら、あの時森で、セレスティアを助けに来た男かと思っていたが。
「……一人か」
「はい」
「ベイル・アーデン……。確か……ヴェルディア王国の騎士……」
一瞬、視線が宙をなぞる。
「……隊長格、だったか」
ノクティスが眉を寄せる。
(……それが、何故ここに来る)
「……わかった。応接室に通せ」
執事は一礼し、静かに退室した。
扉が閉じる。
ーー静寂。
やがて。
無駄なのない動きで一礼した使用人の先導のもと、ベイルは奥へと進んだ。
装飾は抑えられているが、空間そのものが圧を持つ。
ーー見せびらかす豪奢ではなく、支配する静けさ。
「こちらで、少々お待ちください」
扉が閉じられると、応接室には静寂が落ちた。
通された時から、違和感はあった。
整えられているはずの空間は、どこか温度を欠いている。
人の気配が薄いーーいや、消されていると言うべきか。
ベイルは部屋の中央までは進まず、入り口から数歩の位置で足を止めた。
勧められた席には、座らない。
視線だけが、静かに室内をなぞる。
調度は上質だ。無駄もない。
だが、生活の痕跡が極端に乏しい。
この屋敷のどこかにフェリスが囚われていると思うと、胸の奥に沈めていた焦燥が、わずかに形を持つ。
それでも、表には出さない。
代わりに、呼吸を一つ。
長くも、短くもない。
訓練されたそれは、感情を押し留めるためのものだ。
ここは敵地だ。
目的は一つ。
ーー連れ戻す。
それ以外は、すべて些事。
ふと、扉の方へと意識を向ける。
ベイルは微動だにせず、ただその瞬間を待った。
不意に、空気が変わった感覚。
ーー来る。
気配ではない。音でもない。
それでもなお、異質なものが空間に差し込まれる。
遅れて、扉が開いた。
音は、ほとんどしなかった。
静かに現れたのは、一人の男。
深い葡萄酒色の髪。
光を受けてもなお沈むような、艶を帯びた暗赤の瞳。
整いすぎているーーとすら感じるほどの、端正な顔立ち。
だが。
その美しさは、どこか冷たい。
人を惹きつけるためのものではなく、ただ、“完成されている”がゆえの、隙のなさ。
感情の気配が、希薄だ。
薄い色の衣を纏い、飾り気はない。
足音は軽い。
気負いも、警戒も見せない。
数歩、室内へと進みーー
止まる。
暗い赤の瞳が、ベイルを捉えた。
測るように。
解体するように。
沈黙が落ちる。
わずか数秒。
だが、それは妙に長く感じられた。
やがて、わずかに首を傾げる。
「……遠路はるばる。隣国の王宮騎士団隊長殿が我が屋敷に何用で?」
声は穏やかだが、温度はない。
ベイルは一歩、進み出る。
「突然の訪問の非礼を、お許し願いたい」
形式的な礼。だが、視線は逸らさない。
「この度は、お礼と確認に参じました」
わずかに、ノクティスが眉を寄せる。
「お礼とは……」
「貴邸にて令嬢が保護されているとーー確認しております」
わずかに間。
ノクティスはすぐには言葉を返さなかった。
視線だけが、ベイルをなぞる。
その声音。言葉の選び方。
そして、“令嬢”という曖昧な呼称。
ーー確証を持っている者の言い方ではない。
だが。
何かを“掴んでいる”響きがあった。
わずかに、思考が巡る。
測るように、ほんの一瞬だけ目を細める。
「令嬢の名は……セレスティア・イル・エルランドと、伺っております」
その名が、空間に落ちる。
沈黙が、変質した。
変化は微細。
だが、確かに“触れた”。
ノクティスは目を細めるでもなく、ゆっくりと視線を外した。
興味を失ったーーように見えて、違う。
思考している。
そのまま、室内の奥へと歩を進めた。
中央のテーブルへ。
椅子の一つに手をかけーー
「立ったまま話す趣味はないのでね」
淡々と告げる。
命令でも、勧めでもない。
ただの事実の提示。
音もなく、腰を下ろした。
視線だけが、再びベイルへ向けられる。
わずかに間。
ベイルは動かない。
一瞬だけ、その場に立ったまま応じるように視線を返しーー
やがて、ゆっくりと歩を進めた。
向かいの椅子へ。
引く動作に無駄はない。
音を立てず、静かに腰を下ろす。
深くは座らない。
いつでも立てる位置。
視線は外さない。
ノクティスがゆっくりと口を開く。
「……その名を」
穏やかな声音。
「どこでお知りに?」
問いは柔らかいが、探っている。
ベイルは即答しない。
一拍。
「ーーその点については、お答えを差し控えます」
静かに言い切る。
「ですが」
一呼吸。
「貴殿には、お伝えすべき立場にあると、判断しております」
曖昧に返す。
わずかに、間。
「ーー彼女の婚約者として」
ノクティスは、わずかに目を細めた。
それが唯一の変化。
ほんのわずか、興味が差す。
「……婚約者、ですか」
小さく、繰り返す。
「それはまたーー興味深い」
納得したようにも、していないようにも見える。
「……では、すでにお聞き及びかもしれませんが」
ごく自然に言う。
「当家としては、彼女は、以前よりお迎えしたいと考えていた方です」
その響きを、ベイルは静かに受け止める。
(……やはり、そうか)
シャオ・ウェンから聞かされていた話が、脳裏をよぎる。
だがーー
(これは“過去”ではない)
目の前の男は、今もなおそれを望んでいる。
「それは承知しております」
一切の動揺なく、言い切る。
「その上で、申し上げている」
わずかに、沈黙が落ちる。
ベイルが続ける。
「……ならば……彼女のご意思についても、存じ上げているはず」
そう、発した瞬間、苦いものが沸き上がる。
ーー自分も同じだ。
彼女の意思を確かめたわけでない。
それなのに……。
ーーしかし
ベイルは、目の前の男から視線を外さない。
ここで退くわけにはいかない。
ノクティスは、わずかに微笑む。
「……ええ、承知しております」
静かに頷く。
「もっともーー」
ほんのわずかに、視線が細まる。
「意思というものは、置かれた状況によって形を変えるものだ」
淡々とした口調。
「だからこそーーその環境を整えるのは、重要でしょう」
穏やかな声音。
だが、その内実は、
“選ばせるよう状況を作る”という宣言だった。
ノクティスの視線が、ベイルへと向けられる。
「ーーそういう貴殿は既に、確認をお済ませで?」
静かな問い。
逃げ場のない形で、同じ刃を、返す。
一瞬の沈黙。
否定はしない。
「……必要はありません」
静かに言い切る。
「彼女は、自ら選ぶ」
短く、断じる。
「選ばぬものに、従う方ではない」
わずかに間。
「それでもなお、ここに留まるのであればーー」
一拍。
「少なくとも、今は、それが意思だ」
ノクティスの目が、わずかに細まる。
「……なるほど」
わずかに間。
「言葉ではなく、そう在ることをもって意思とするか」
わずかに、口元が緩む。
「だがーー」
「他者の沈黙を、己に都合よく解釈することもまた、意思だ」
沈黙が落ちる。
ベイルはわずかに視線を伏せーー
すぐに戻した。
「……そうかもしれないな」
否定はしない。
一拍。
「それでも、俺はそう判断する」
ノクティスがわずかに、笑う。
「随分とーー愚直だ」
だが、その声音に否定はない。
「嫌いではない」
静かな視線。
「その“意思”とやらーー」
「どこまで貫けるかーー見てみよう」
その視線を、受け止める。
わずかに、息が止まる。
(……ここから先は)
引き返せば、まだ“社交”で済む。
だが、一歩踏み出せばーーそれは、個人の意思ではない。
背後にあるものを、示すことになる。
レオニードの顔が、脳裏をよぎる。
(……借りるぞ)
心の中で、短く告げる。
これは脅しではない。
ましてや誇示でもない。
(守ると決めた)
ただ、そのために必要な“手”を選ぶだけだ。
「ではーーこちらを」
静かに差し出される小箱。
ベイルが、静かに口を開く。
「此度のご厚意に対する、ささやかな謝意を」
それ以上は語らない。
飾り気はない。だがーー
刻まれた紋章は、一目でそれとわかる。
ノクティスの視線が、自然と落ちる。
そしてーー止まった。
沈黙。
ほんのわずかな、間。
(……これは)
蓋を開けるまでもない。
刻まれた紋。
それが意味するものは明白だった。
(……王家、か)
空気が、わずかに変わる。
一瞬で、すべてを把握する。
個人の婚約ではない。
これはーー後ろに「誰がいるか」を示すもの。
(なるほど)
思考は、冷静に巡る。
(……軽くはないな)
そして。もう一歩踏み込む。
(……既に、囲われているか)
沈黙は、ほんの数秒。
だがその内側で、秤はすでに傾いている。
(今、この場で争う意味はない)
勝てない、ではない。
ここで競る価値がない、と切り捨てる。
その判断の奥に、もう一つーー
(……惜しいな)
感情にすらならない、かすかな未練。
手に入るはずだったもの。
一度は、掌から零れ落ちたもの。
そして今、再び現れたそれをーー
(だが)
思考は、そこで止める。
長く引きずるほど、安い執着ではない。
ゆっくりと、顔を上げた。
部屋の空気が、静かに張り詰める。
「……これは、また」
穏やかな微笑。
「過分なお心遣いを」
視線が、わずかに深くなる。
「ヴェルディア王家と貴殿は……思いのほか、ご縁が深いようで」
わずかに笑う。
「……貴殿は、思っていた以上に、面白い」
評価するように、静かに告げる。
ほんの一拍。
「……本日は、有意義な時間でした」
薄く、笑みを乗せる。
「ーー今回は……譲るとしましょう」
ノクティスはわずかに視線を外した。
思考は、すでに次へ移っている。
「ーーセレスティア嬢を、こちらへ」
控えていた執事へ、告げる。
「通してくれ」
一切の揺らぎがない。
それが決定事項であるかのように。
ベイルは、わずかに息を吐く。
「……感謝いたします」
言葉が落ちたあと、部屋に、わずかな静寂が落ちる。
張り詰めていた空気が、ほんのわずかだけ、緩んだ。
だがーー
(……まだだ)
胸の内で、ベイルは静かに続ける。
本当に手に入れるべきものは、まだ、この手の中にはない。
屋敷は、変わらず静寂に包まれていた。
控えめなノック。
「失礼致します」
執事が、入る。
ノクティスは、書類から顔を上げない。
「来訪者が」
短い報告。
「……誰だ」
「……隣国ヴェルディア王国のベイル・アーデン卿にございます」
ーー沈黙。
ペン先が、止まった。
「ヴェルディア王国……」
予想していた名ではない。
追ってくるなら、あの時森で、セレスティアを助けに来た男かと思っていたが。
「……一人か」
「はい」
「ベイル・アーデン……。確か……ヴェルディア王国の騎士……」
一瞬、視線が宙をなぞる。
「……隊長格、だったか」
ノクティスが眉を寄せる。
(……それが、何故ここに来る)
「……わかった。応接室に通せ」
執事は一礼し、静かに退室した。
扉が閉じる。
ーー静寂。
やがて。
無駄なのない動きで一礼した使用人の先導のもと、ベイルは奥へと進んだ。
装飾は抑えられているが、空間そのものが圧を持つ。
ーー見せびらかす豪奢ではなく、支配する静けさ。
「こちらで、少々お待ちください」
扉が閉じられると、応接室には静寂が落ちた。
通された時から、違和感はあった。
整えられているはずの空間は、どこか温度を欠いている。
人の気配が薄いーーいや、消されていると言うべきか。
ベイルは部屋の中央までは進まず、入り口から数歩の位置で足を止めた。
勧められた席には、座らない。
視線だけが、静かに室内をなぞる。
調度は上質だ。無駄もない。
だが、生活の痕跡が極端に乏しい。
この屋敷のどこかにフェリスが囚われていると思うと、胸の奥に沈めていた焦燥が、わずかに形を持つ。
それでも、表には出さない。
代わりに、呼吸を一つ。
長くも、短くもない。
訓練されたそれは、感情を押し留めるためのものだ。
ここは敵地だ。
目的は一つ。
ーー連れ戻す。
それ以外は、すべて些事。
ふと、扉の方へと意識を向ける。
ベイルは微動だにせず、ただその瞬間を待った。
不意に、空気が変わった感覚。
ーー来る。
気配ではない。音でもない。
それでもなお、異質なものが空間に差し込まれる。
遅れて、扉が開いた。
音は、ほとんどしなかった。
静かに現れたのは、一人の男。
深い葡萄酒色の髪。
光を受けてもなお沈むような、艶を帯びた暗赤の瞳。
整いすぎているーーとすら感じるほどの、端正な顔立ち。
だが。
その美しさは、どこか冷たい。
人を惹きつけるためのものではなく、ただ、“完成されている”がゆえの、隙のなさ。
感情の気配が、希薄だ。
薄い色の衣を纏い、飾り気はない。
足音は軽い。
気負いも、警戒も見せない。
数歩、室内へと進みーー
止まる。
暗い赤の瞳が、ベイルを捉えた。
測るように。
解体するように。
沈黙が落ちる。
わずか数秒。
だが、それは妙に長く感じられた。
やがて、わずかに首を傾げる。
「……遠路はるばる。隣国の王宮騎士団隊長殿が我が屋敷に何用で?」
声は穏やかだが、温度はない。
ベイルは一歩、進み出る。
「突然の訪問の非礼を、お許し願いたい」
形式的な礼。だが、視線は逸らさない。
「この度は、お礼と確認に参じました」
わずかに、ノクティスが眉を寄せる。
「お礼とは……」
「貴邸にて令嬢が保護されているとーー確認しております」
わずかに間。
ノクティスはすぐには言葉を返さなかった。
視線だけが、ベイルをなぞる。
その声音。言葉の選び方。
そして、“令嬢”という曖昧な呼称。
ーー確証を持っている者の言い方ではない。
だが。
何かを“掴んでいる”響きがあった。
わずかに、思考が巡る。
測るように、ほんの一瞬だけ目を細める。
「令嬢の名は……セレスティア・イル・エルランドと、伺っております」
その名が、空間に落ちる。
沈黙が、変質した。
変化は微細。
だが、確かに“触れた”。
ノクティスは目を細めるでもなく、ゆっくりと視線を外した。
興味を失ったーーように見えて、違う。
思考している。
そのまま、室内の奥へと歩を進めた。
中央のテーブルへ。
椅子の一つに手をかけーー
「立ったまま話す趣味はないのでね」
淡々と告げる。
命令でも、勧めでもない。
ただの事実の提示。
音もなく、腰を下ろした。
視線だけが、再びベイルへ向けられる。
わずかに間。
ベイルは動かない。
一瞬だけ、その場に立ったまま応じるように視線を返しーー
やがて、ゆっくりと歩を進めた。
向かいの椅子へ。
引く動作に無駄はない。
音を立てず、静かに腰を下ろす。
深くは座らない。
いつでも立てる位置。
視線は外さない。
ノクティスがゆっくりと口を開く。
「……その名を」
穏やかな声音。
「どこでお知りに?」
問いは柔らかいが、探っている。
ベイルは即答しない。
一拍。
「ーーその点については、お答えを差し控えます」
静かに言い切る。
「ですが」
一呼吸。
「貴殿には、お伝えすべき立場にあると、判断しております」
曖昧に返す。
わずかに、間。
「ーー彼女の婚約者として」
ノクティスは、わずかに目を細めた。
それが唯一の変化。
ほんのわずか、興味が差す。
「……婚約者、ですか」
小さく、繰り返す。
「それはまたーー興味深い」
納得したようにも、していないようにも見える。
「……では、すでにお聞き及びかもしれませんが」
ごく自然に言う。
「当家としては、彼女は、以前よりお迎えしたいと考えていた方です」
その響きを、ベイルは静かに受け止める。
(……やはり、そうか)
シャオ・ウェンから聞かされていた話が、脳裏をよぎる。
だがーー
(これは“過去”ではない)
目の前の男は、今もなおそれを望んでいる。
「それは承知しております」
一切の動揺なく、言い切る。
「その上で、申し上げている」
わずかに、沈黙が落ちる。
ベイルが続ける。
「……ならば……彼女のご意思についても、存じ上げているはず」
そう、発した瞬間、苦いものが沸き上がる。
ーー自分も同じだ。
彼女の意思を確かめたわけでない。
それなのに……。
ーーしかし
ベイルは、目の前の男から視線を外さない。
ここで退くわけにはいかない。
ノクティスは、わずかに微笑む。
「……ええ、承知しております」
静かに頷く。
「もっともーー」
ほんのわずかに、視線が細まる。
「意思というものは、置かれた状況によって形を変えるものだ」
淡々とした口調。
「だからこそーーその環境を整えるのは、重要でしょう」
穏やかな声音。
だが、その内実は、
“選ばせるよう状況を作る”という宣言だった。
ノクティスの視線が、ベイルへと向けられる。
「ーーそういう貴殿は既に、確認をお済ませで?」
静かな問い。
逃げ場のない形で、同じ刃を、返す。
一瞬の沈黙。
否定はしない。
「……必要はありません」
静かに言い切る。
「彼女は、自ら選ぶ」
短く、断じる。
「選ばぬものに、従う方ではない」
わずかに間。
「それでもなお、ここに留まるのであればーー」
一拍。
「少なくとも、今は、それが意思だ」
ノクティスの目が、わずかに細まる。
「……なるほど」
わずかに間。
「言葉ではなく、そう在ることをもって意思とするか」
わずかに、口元が緩む。
「だがーー」
「他者の沈黙を、己に都合よく解釈することもまた、意思だ」
沈黙が落ちる。
ベイルはわずかに視線を伏せーー
すぐに戻した。
「……そうかもしれないな」
否定はしない。
一拍。
「それでも、俺はそう判断する」
ノクティスがわずかに、笑う。
「随分とーー愚直だ」
だが、その声音に否定はない。
「嫌いではない」
静かな視線。
「その“意思”とやらーー」
「どこまで貫けるかーー見てみよう」
その視線を、受け止める。
わずかに、息が止まる。
(……ここから先は)
引き返せば、まだ“社交”で済む。
だが、一歩踏み出せばーーそれは、個人の意思ではない。
背後にあるものを、示すことになる。
レオニードの顔が、脳裏をよぎる。
(……借りるぞ)
心の中で、短く告げる。
これは脅しではない。
ましてや誇示でもない。
(守ると決めた)
ただ、そのために必要な“手”を選ぶだけだ。
「ではーーこちらを」
静かに差し出される小箱。
ベイルが、静かに口を開く。
「此度のご厚意に対する、ささやかな謝意を」
それ以上は語らない。
飾り気はない。だがーー
刻まれた紋章は、一目でそれとわかる。
ノクティスの視線が、自然と落ちる。
そしてーー止まった。
沈黙。
ほんのわずかな、間。
(……これは)
蓋を開けるまでもない。
刻まれた紋。
それが意味するものは明白だった。
(……王家、か)
空気が、わずかに変わる。
一瞬で、すべてを把握する。
個人の婚約ではない。
これはーー後ろに「誰がいるか」を示すもの。
(なるほど)
思考は、冷静に巡る。
(……軽くはないな)
そして。もう一歩踏み込む。
(……既に、囲われているか)
沈黙は、ほんの数秒。
だがその内側で、秤はすでに傾いている。
(今、この場で争う意味はない)
勝てない、ではない。
ここで競る価値がない、と切り捨てる。
その判断の奥に、もう一つーー
(……惜しいな)
感情にすらならない、かすかな未練。
手に入るはずだったもの。
一度は、掌から零れ落ちたもの。
そして今、再び現れたそれをーー
(だが)
思考は、そこで止める。
長く引きずるほど、安い執着ではない。
ゆっくりと、顔を上げた。
部屋の空気が、静かに張り詰める。
「……これは、また」
穏やかな微笑。
「過分なお心遣いを」
視線が、わずかに深くなる。
「ヴェルディア王家と貴殿は……思いのほか、ご縁が深いようで」
わずかに笑う。
「……貴殿は、思っていた以上に、面白い」
評価するように、静かに告げる。
ほんの一拍。
「……本日は、有意義な時間でした」
薄く、笑みを乗せる。
「ーー今回は……譲るとしましょう」
ノクティスはわずかに視線を外した。
思考は、すでに次へ移っている。
「ーーセレスティア嬢を、こちらへ」
控えていた執事へ、告げる。
「通してくれ」
一切の揺らぎがない。
それが決定事項であるかのように。
ベイルは、わずかに息を吐く。
「……感謝いたします」
言葉が落ちたあと、部屋に、わずかな静寂が落ちる。
張り詰めていた空気が、ほんのわずかだけ、緩んだ。
だがーー
(……まだだ)
胸の内で、ベイルは静かに続ける。
本当に手に入れるべきものは、まだ、この手の中にはない。