騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
 ゆっくりと、腕の力が緩む。

 離されたことで、ようやく空気が戻ってくる。

 フェリスは視線を落としたまま、動けなかった。

 まだ、鼓動がうるさい。

 どこまでが自分のものなのか、分からないほどに。

 向かい合う形になる。

 だが、先ほどまでとは違う。

 距離はあるのに、近い。

 沈黙が落ちる。

 揺れる馬車の音だけが、規則正しく響く。

 ーーやがて。

 「……すまない」

 きまり悪そうに、ベイルが口を開く。

 フェリスが、わずかに顔を上げる。

 ベイルは視線を外したまま、続けた。

 「……抑えが利かなかった」

 正直な言葉。

 ーー耳が、わずかに赤い。

 だが、それだけで。

 取り繕っているのではなく、本気で、そう思っているのだと分かる。

 その響きに、わずかに胸がざわつく。

 フェリスは、瞬きをする。

 どう返せばいいのか、分からない。

 「……あの……」

 声が、うまく出ない。

 頬の熱が、引かない。

 「……い、いえ……」

 指先が、落ち着かずに布をつまむ。

 言わなければ、と思う。

 でも、何をーー

 「……でも……」

 ふと、言葉が零れかける。

 自分でも驚くほど、自然に。

 「……嫌では……」

 そこまで言って、はっとする。

 一気に、熱が上がる。

 何を言おうとしているのか、

 理解した瞬間ーー

 「……っ」

 小さく息を呑む。

 顔を上げられない。

 今、自分がどんな顔をしているのか、

 考えたくもない。

 沈黙。

 馬車の揺れだけが、やけに大きく感じられる。

 ベイルは、何も言わなかった。

 ただ一度だけ、

 わずかに視線を動かした気配がある。

 聞こえていたのか、いなかったのか。

 分からない。

 ーー少しだけ、息を吸う。

 迷うような間。

 それから。

 「……迎えに来てくれて、ありがとう」

 今度は、消え入りそうではない声。

 小さいけれど、まっすぐな言葉。

 ほんの一拍、ためらう。

 それでも。

 「……嬉しかった」

 言ってしまってから、

 自分で、少し驚いたように瞬きをする。

 飾らない本音。

 沈黙。

 ーーその一瞬だけ、

 馬車の空気が、止まる。

 ベイルは、言葉を失った。

 視線を合わせないまま、

 わずかに、息が止まる。

 組んでいた指先に、はっきりと力がこもる。

 そして、ほんのわずかに

 肩が、揺れた。

 「……っ」

 声にならない呼吸。

 それを、押し殺すように。

 一度、ゆっくりと息を吐く。

 「……そうか」

 短い返答。

 それだけ。

 それだけなのにーー

 先ほどよりも明らかに低い声。

 感情を押し込めた響き。

 それ以上は、何も言わない。
 
 視線も上げない。
 
 上げれば、

 何かが崩れると、分かっているから。

 フェリスは、気づかないまま、

 あるいは、気づかないふりをして、

 視線を落とし続ける。

 胸の奥が、落ち着かない。

 何かを誤魔化したまま、置いてきてしまったような感覚。

 それでも、

 言い直すことはできなかった。

 
< 71 / 87 >

この作品をシェア

pagetop