騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
 夜が深まった頃、馬車はようやく宿へと辿り着いた。

 簡素だが、よく手入れの行き届いた建物。
 軒先に灯る明かりが、夜の気配をやわらかく押し返している。

 ベイルが先に降り、振り返る。

 「……手を」

 差し出された手に、一瞬だけ躊躇(ためら)う。

 ほんの少し前まで、その腕の中にいたのだとーー
 思い出してしまう。

 「……ありがとう」

 触れる指先が、わずかに強張る。

 すぐに離れる。

 それだけのことなのに、

 なぜか意識が引きずられたままになる。

 中へ入ると、静かな空気が迎えた。

 必要最低限のやりとりを済ませ、ベイルは淡々と鍵を受け取る。

 「部屋は、別に取ってある」

 振り返らずに告げられた言葉。

 「……そう、なんだ」

 自然に返したつもりの声が、少しだけ頼りなかった。

 ほっとしたはずなのに、胸の奥に、わずかな引っかかりが残る。

 気のせいだと、思うことにする。

 「何かあれば、すぐに呼んでくれ」

 短い言葉。

 いつも通りのはずなのに、どこか距離を測るような響きがある。

 「……わかった」

 視線が合わないまま、頷く。

 一瞬だけ、沈黙。

 それ以上、言葉は続かなかった。

 「ーーでは」
 
 ベイルが先に(きびす)を返す。

 その背を、呼び止める理由はない。

 はずなのに。

 「……あの」

 思わず、声が漏れる。

 自分でも驚いて、息を呑む。

 ベイルが足を止め、わずかに振り返る。

 「……婚約者、というのは……その……」

 わずかに視線を逸らす。

 「……偽り……だよね」
 
 自分で言って、自分で納得するように、頷く。

 それで終わるはずだった。

 ーーなのに。

 胸の奥に、わずかな違和感が残る。

 ーーそれだけのはずなのに。

 なぜか、言葉にした以上に、その響きが残っていた。

 「……ああ」

 短く、肯定する。
 
 「ノクティスに通すための、筋書きだ」

 一拍。

 「……殿下の案だ」
 「……あの場では、それが最も確実だった」
 
 そして、わずかに声音が落ちる。

 「……君には、断りもなく使った」

 わずかに、言葉を選ぶような間。

 「……すまない」

 それだけ。

 それ以上、何も言わない。

 言えない。

 そのまま、背を向ける。

 足音が遠ざかっていく。

 フェリスは、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。

 胸の奥が落ち着かない。

 静かなはずの廊下が、やけに広く、遠く感じられる。

 ーーやがて。

 小さく息を吐き、鍵を握りしめる。

 自分の部屋へと向かう足取りは、どこかぎこちないままだった。
 
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