騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
王宮の奥ーー執務室。
そのさらに奥に通されたのは、来客用の応接を兼ねた私的な一室だった。
重厚さはあるが、張り詰めすぎてはいない。
公と私の境界に置かれたような、静かな空間。
「こちらへ」
レオニードが先に入り、さりげなく席を示す。
フェリスは一瞬だけ足を止めたが、促されるまま静かに腰を下ろした。
その後ろに、音もなく立つ影。シャオ・ウェン。
寄り添うでも、離れるでもない距離。
ただそこに在ることで、均衡を保つように。
ベイルは、わずかに間を置いてから席についた。
向かいではなく、わずかに位置をずらす。
正面から対峙することを、避けるように。
レオニードは最後に腰を下ろし、ゆるやかに視線を巡らせた。
配置を確かめるように。
「さて」
軽く、指先で卓を叩く。
「まずはーー無事で何よりだ、セレスティア嬢」
声音は穏やかだが、その奥には確かに測る響きがある。
フェリスは、わずかに視線を上げた。
「……はい」
短く、それだけ。
それ以上は続かない。
レオニードは、それを咎めることなく頷いた。
「シャオ・ウェン殿から、ある程度話は伺っている」
「貴女は、隣国ゼルドレイン帝国のエルランド伯爵家のご令嬢だと」
「早くにご両親を亡くされ、兼ねてより懇意にしていたルヴェール伯爵家の養女として迎えられたそうだな」
フェリスは、静かに頷く。
「はい、養家のみなさんにはとてもよくして頂きました」
「それなのに、ノクティスからの婚姻の申し出から逃れるため、事故死を装い、身分を隠していた」
「……はい。私の身を案じた養父母がそのように」
「だがーーノクティスに知られてしまった」
「貴女が生きていると」
「……はい」
「セレスティア嬢……貴女はこれからどうされるおつもりか?」
「このまま、身分を隠し、シャオ・ウェン殿と森での生活を続けるーーそうお考えか」
「……それは……」
フェリスは、わずかにシャオ・ウェンの方へ視線を向ける。
だが、師は何も言わない。
翡翠の瞳はただ静かに彼女を見つめている。
導くでも、制するでもなくーーただ、委ねるように。
その沈黙が、逆に重い。
言葉が続かない。
森での三年。
風の音と、木々のざわめきの中で過ごした日々。
誰の視線もなく、何物でもなく在ることを許された自由な時間。
けれどーー
(伯爵令嬢という立場に戻ることになれば……)
あの視線に晒される。
値踏みされ、測られ、
そしてーー選ばれる。
否。
選ばされる。
ノクティスの名が、胸の奥に冷たく落ちる。
ーーけれど。
(今は……)
ノクティスの元から、救い出してくれた手。
強引なほどに、けれど確かに自分を引き寄せた現実。
(私は、もう)
“あの頃の私とは違う”
あの手を、知ってしまったから。
「……私は」
かすれた声が、ようやく形になる。
その時だった。
「殿下」
低く、抑えた声。
ベイルだった。
レオニードがわずかに眉を上げる。
続きを促すような視線。
ベイルは一瞬だけフェリスを見た。
視線は合わない。
だがーー迷いはない。
「今の彼女に、即答を求めるのは酷でしょう」
静かに、しかしはっきりと。
「もう少し、考える時間が必要です」
理にかなった言葉。
だがそれだけではない。
そこには明確にーー
守ろうとする意志があった。
レオニードは、わずかに目を細める。
「……時間か」
「とはいえーー現状、セレスティア嬢はベイル・アーデン侯爵令息の婚約者という形になっているがな」
視線が、ベイルへと流れる。
「ノクティスの屋敷から、連れ出す際、ベイルは貴女を婚約者として引き取った」
軽く、言葉を置く。
「方便としては、これ以上ない手だった」
フェリスの指先が、わずかに揺れた。
「問題はーー」
レオニードの声音が、わずかに低くなる。
「それを、この先どうするかだ」
静寂。
「セレスティア嬢」
まっすぐに、射抜くような視線。
「このまま“ベイルの婚約者”でいる覚悟はあるか?」
逃げ場のない問い。
だが、それは強制ではない。
選択。
フェリスは息を呑む。
(……これは)
ただ守られるための立場ではない。
ここに留まるということはーー
もう、逃げないということ。
ちらりと、視線を上げる。
ベイルは何も言わない。
ただ、そこにいる。
押し付けるでもなく、引き留めるでもなく。
それでもーー
(あの人は)
あの時と同じように。
必要なら、また手を取るのだろう。
理由などなくても。
評価などなくても、
ただ、自分が自由であるままに。
「……」
指先に、力を込める。
ーー選ばされるのではない。
今度は、自分で。
「……お願い致します」
小さく、けれど確かな声。
「このままーーベイル様の婚約者として、置かせてください」
フェリスの言葉が落ちたあと、わずかな沈黙が生まれる。
ベイルは、すぐには答えなかった。
ほんのわずかに、息を置く。
それは迷いではなくーー
言葉の重みを受け止めるための、静かな間。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……承知した」
短く、それだけ。
だがーーそれだけで終わらない。
わずかに、視線をフェリスへ向ける。
「だが、誤解しないでくれ」
低く、静かな声。
「これは“縛るため”のものではない」
一拍。
「不要になれば、いつでも解消していい」
一拍。
「だがーー」
ほんの僅かに、言葉を選ぶ間。
「ーーそれとは別に、お前を守るという俺の意思は変わらない」
レオニードは、ふっと笑った。
「……いいだろう」
指先で軽く卓を叩く。
「その“仮初め”ーー私が認める」
視線が、二人を射抜く。
「王家公認の婚約者だ」
一拍。
口元に、愉し気な色が浮かぶ。
「これで、誰も口出しはできん」
わずかに肩を竦めて。
「……尤も」
「当人同士がどうなるかまでは、保証しないがな?」
それまで沈黙を保っていたシャオ・ウェンが、静かに口を開いた。
「……それでよいでしょう」
穏やかな声が、場に落ちる。
「この子は、ようやく自分で選んだ」
翡翠の瞳が、わずかに細められる。
「ならばーー私は、それを尊びます」
一瞬だけ、フェリスを見る。
「必要な時は、いつでも戻ってきなさい」
それだけ言って、再び沈黙に戻った。
「……師匠、ありがとうございます」
フェリスは、わずかに息を吐く。
ふと、視線を上げる。
ベイルが、静かにこちらを見ていた。
言葉はない。
けれど、その眼差しは、変わらずそこにある。
押し付けることも、縛ることもなく。
ただーー隣に在ることを、選んだ者のそれ。
フェリスは、ほんのわずかに目を伏せた。
(……もう、逃げない)
その決意だけが、静かに胸に落ちた。
そのさらに奥に通されたのは、来客用の応接を兼ねた私的な一室だった。
重厚さはあるが、張り詰めすぎてはいない。
公と私の境界に置かれたような、静かな空間。
「こちらへ」
レオニードが先に入り、さりげなく席を示す。
フェリスは一瞬だけ足を止めたが、促されるまま静かに腰を下ろした。
その後ろに、音もなく立つ影。シャオ・ウェン。
寄り添うでも、離れるでもない距離。
ただそこに在ることで、均衡を保つように。
ベイルは、わずかに間を置いてから席についた。
向かいではなく、わずかに位置をずらす。
正面から対峙することを、避けるように。
レオニードは最後に腰を下ろし、ゆるやかに視線を巡らせた。
配置を確かめるように。
「さて」
軽く、指先で卓を叩く。
「まずはーー無事で何よりだ、セレスティア嬢」
声音は穏やかだが、その奥には確かに測る響きがある。
フェリスは、わずかに視線を上げた。
「……はい」
短く、それだけ。
それ以上は続かない。
レオニードは、それを咎めることなく頷いた。
「シャオ・ウェン殿から、ある程度話は伺っている」
「貴女は、隣国ゼルドレイン帝国のエルランド伯爵家のご令嬢だと」
「早くにご両親を亡くされ、兼ねてより懇意にしていたルヴェール伯爵家の養女として迎えられたそうだな」
フェリスは、静かに頷く。
「はい、養家のみなさんにはとてもよくして頂きました」
「それなのに、ノクティスからの婚姻の申し出から逃れるため、事故死を装い、身分を隠していた」
「……はい。私の身を案じた養父母がそのように」
「だがーーノクティスに知られてしまった」
「貴女が生きていると」
「……はい」
「セレスティア嬢……貴女はこれからどうされるおつもりか?」
「このまま、身分を隠し、シャオ・ウェン殿と森での生活を続けるーーそうお考えか」
「……それは……」
フェリスは、わずかにシャオ・ウェンの方へ視線を向ける。
だが、師は何も言わない。
翡翠の瞳はただ静かに彼女を見つめている。
導くでも、制するでもなくーーただ、委ねるように。
その沈黙が、逆に重い。
言葉が続かない。
森での三年。
風の音と、木々のざわめきの中で過ごした日々。
誰の視線もなく、何物でもなく在ることを許された自由な時間。
けれどーー
(伯爵令嬢という立場に戻ることになれば……)
あの視線に晒される。
値踏みされ、測られ、
そしてーー選ばれる。
否。
選ばされる。
ノクティスの名が、胸の奥に冷たく落ちる。
ーーけれど。
(今は……)
ノクティスの元から、救い出してくれた手。
強引なほどに、けれど確かに自分を引き寄せた現実。
(私は、もう)
“あの頃の私とは違う”
あの手を、知ってしまったから。
「……私は」
かすれた声が、ようやく形になる。
その時だった。
「殿下」
低く、抑えた声。
ベイルだった。
レオニードがわずかに眉を上げる。
続きを促すような視線。
ベイルは一瞬だけフェリスを見た。
視線は合わない。
だがーー迷いはない。
「今の彼女に、即答を求めるのは酷でしょう」
静かに、しかしはっきりと。
「もう少し、考える時間が必要です」
理にかなった言葉。
だがそれだけではない。
そこには明確にーー
守ろうとする意志があった。
レオニードは、わずかに目を細める。
「……時間か」
「とはいえーー現状、セレスティア嬢はベイル・アーデン侯爵令息の婚約者という形になっているがな」
視線が、ベイルへと流れる。
「ノクティスの屋敷から、連れ出す際、ベイルは貴女を婚約者として引き取った」
軽く、言葉を置く。
「方便としては、これ以上ない手だった」
フェリスの指先が、わずかに揺れた。
「問題はーー」
レオニードの声音が、わずかに低くなる。
「それを、この先どうするかだ」
静寂。
「セレスティア嬢」
まっすぐに、射抜くような視線。
「このまま“ベイルの婚約者”でいる覚悟はあるか?」
逃げ場のない問い。
だが、それは強制ではない。
選択。
フェリスは息を呑む。
(……これは)
ただ守られるための立場ではない。
ここに留まるということはーー
もう、逃げないということ。
ちらりと、視線を上げる。
ベイルは何も言わない。
ただ、そこにいる。
押し付けるでもなく、引き留めるでもなく。
それでもーー
(あの人は)
あの時と同じように。
必要なら、また手を取るのだろう。
理由などなくても。
評価などなくても、
ただ、自分が自由であるままに。
「……」
指先に、力を込める。
ーー選ばされるのではない。
今度は、自分で。
「……お願い致します」
小さく、けれど確かな声。
「このままーーベイル様の婚約者として、置かせてください」
フェリスの言葉が落ちたあと、わずかな沈黙が生まれる。
ベイルは、すぐには答えなかった。
ほんのわずかに、息を置く。
それは迷いではなくーー
言葉の重みを受け止めるための、静かな間。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……承知した」
短く、それだけ。
だがーーそれだけで終わらない。
わずかに、視線をフェリスへ向ける。
「だが、誤解しないでくれ」
低く、静かな声。
「これは“縛るため”のものではない」
一拍。
「不要になれば、いつでも解消していい」
一拍。
「だがーー」
ほんの僅かに、言葉を選ぶ間。
「ーーそれとは別に、お前を守るという俺の意思は変わらない」
レオニードは、ふっと笑った。
「……いいだろう」
指先で軽く卓を叩く。
「その“仮初め”ーー私が認める」
視線が、二人を射抜く。
「王家公認の婚約者だ」
一拍。
口元に、愉し気な色が浮かぶ。
「これで、誰も口出しはできん」
わずかに肩を竦めて。
「……尤も」
「当人同士がどうなるかまでは、保証しないがな?」
それまで沈黙を保っていたシャオ・ウェンが、静かに口を開いた。
「……それでよいでしょう」
穏やかな声が、場に落ちる。
「この子は、ようやく自分で選んだ」
翡翠の瞳が、わずかに細められる。
「ならばーー私は、それを尊びます」
一瞬だけ、フェリスを見る。
「必要な時は、いつでも戻ってきなさい」
それだけ言って、再び沈黙に戻った。
「……師匠、ありがとうございます」
フェリスは、わずかに息を吐く。
ふと、視線を上げる。
ベイルが、静かにこちらを見ていた。
言葉はない。
けれど、その眼差しは、変わらずそこにある。
押し付けることも、縛ることもなく。
ただーー隣に在ることを、選んだ者のそれ。
フェリスは、ほんのわずかに目を伏せた。
(……もう、逃げない)
その決意だけが、静かに胸に落ちた。